9月7日
ソウリヤット・アクロス・ボーダーズ(以降S.A.B)はアンマン市内でシリア人難民の支援や教育活動を行っている民間組織だ。
最初、当てにしていた、シリア人難民コミュニティーへのコネクションから返信がなく、ヨルダンでの活動計画を最初から見直さなければならなくなった。パレスチナに行く数日前にホストであるイリーナさんから、この組織の名前を伺い、相談してみたらと勧められたのだ。パレスチナへの渡航準備とアンマン市内での生活の仕方に慣れるだけで1週間はあっという間に過ぎてしまった。
あてもなく訪問したパレスチナで思わぬ出会いに恵まれた。インタビューやキャンプへの訪問、期待していなかった撮影活動までできた。
パレスチナからアンマンに戻るだけで体力、精神、金銭と相当消耗した。翌日は完全にダウン。9月3日になってから、S.A.Bのホームページフォーマットから取材やアートワークショップについてのオファーをし、次の訪問国であるエジプトでの取材活動のキーマンであるハッサンさんを探したり、ネパールで芸術を通じた平和活動をされているサントシさんと連絡をとったりしていた。あっという間に時間が過ぎていく。
翌4日、ハッサンさんの連絡先は津村君のお陰で突き止めたものの、返事がなく本人かどうか確認がとれない。また、S.A.Bからの返信もない。イリーナさんから「直接行った方が話が早い」と連絡を頂く。唯一繋がったのは、ネパールのサントシさん。私たちが渡航して1週間はカトマンズにいないが、その後は大丈夫だという。一緒に世界の平和のために力を合わせましょうと。同じ志を持つ人の言葉に心が震えた。
5日になって、やっと物事が動き始めた。直接伺ったS.A.Bで、1日だが撮影とインタビューの機会を頂くことになった。また、翌週に子供向けの折り紙ワークショップもさせて頂くことになった。帰宅途中のウーバーの中で携帯が鳴った。エジプトのハッサンさんからだった。「もちろん覚えていますよ。返事が遅くなったのは風邪をひいていたからです」と「まずは風邪を治してください。また、しばらくしてからご連絡差し上げます」と。
暗礁ににのりあげかけていた、ヨルダンとエジプトでの活動がやっと動き始めた。何というか、毎度毎度、運がいいというか、人の情けと手助けで物事がうまく運ぶというか。ありがたいことである。また、S.A.Bメンバーとシリア国境を越えてボランティア活動に参加しないかというお誘いを頂いた。日本大使館はいかなる理由でも(報道関係を含め)渡航は認めない方針。ところが、日本大使館の意向に関わらず、シリア観光局からの渡航VISAが入手できて、信頼できるガイドと共に行動するのであれば入国を認めるという。
ヨルダンはシリア人難民に対して寛大な受け入れ政策をとっており、シリア政府からも信頼されているという。シリア国境を安全に超えることができて、難民の為に何かできるのだったら何が何でも行きたいという気持ちになった。かおりも同意してくれた。しかし、シリア観光局からVISAの発行に2週間かかると。3日足りない。これは諦めろということだと思った。
そして今日、やっとヨルダンでの実質的な活動が始まった。約束の時間にS.A.Bに伺い、英語教室の生徒さん方に撮影協力を呼びかける。また、先方が選択してくれた英語を喋ることができるシリア人難民からのインタビューに漕ぎつけることができた。
英語クラス終了後、撮影に興味を示してくださった方々に活動趣旨を説明。同意を得た後、撮影を開始した。結果的に、興味を示してくださった皆さんは全員、撮影に協力してくださった。ただ、女性はひとりもいなかった。イスラム圏で女性の撮影は難しいだろうなと思っていたが、これほどとは。
皆さんとても気さくで、中には日本語の挨拶をしてくださった方もいらっしゃった。ただ、忘れてはならないのが、この気さくな笑顔で協力をしてくださった皆さんの多くが、シリアからの難民であるということだ。
撮影後、応接室にてインタビューを録らせていただいた。足代に10ディナールかかるという話だったのでどういうことがと思っていたら、足が不自由な方で車いすでいらした。20歳の青年で、シリアの首都ダマスカス近郊出身。軍の攻撃が激しくなり、街は破壊され人々が殺される中、ヨルダンの国境を越えて難民となった。難民生活の始まりは大変だったが、仲間が増え、S.A.Bの支援もあり、次第に良くなっていったと。先も述べたが、ヨルダンはシリア人難民に対して寛容だったので、アンマンにくることになったのだそうだ。
また、どうしたら平和な世の中になると思いますか。特に「この地域」についてなのですがという質問をした。彼は笑いながら「これは難しい問題ですねー」と。「それは承知していますが、お答えいただきたいのです」お願いすると本音を話してくださった。内容をまとめると「民族同士で武器を持ち土地や利権を奪い合う限り、また、強い国と弱い国が存在する限り、戦争は無くならないんじゃないかと思っている」ということ。そうだよな。時々、笑いながら話をする彼は、実際に戦闘で国を追われ、異国の地でハンディキャップを抱えながらも一生懸命に生きているのだ。そんな彼からの「戦争はなくならない」という言葉は、平和を希求する我々の活動の存在意義を揺るがすものだ。しかし、何故かすんなりと彼の言うことを受け入れることができた。それはきっと、パレスチナ訪問後、僕も同じことを考え始めていたからなのだろう。
世界は想像を超えている。しかも、我々日本人にとっては、その歴史的背景や支配構造を正確に理解することは難しいと思われるのだ。書籍や報道はなされているが、そのほとんどは英語によってなされている。さらに、それが日本語に訳されて我々の元に届く。もちろん、その中立性や客観性を保ちつつ報道されているのは分かる。翻訳も然り。ただ、英語圏メディアというフィルターを通った時点で、問題そのものに「完全に奥底まで踏み込めない原因が存在する」と思う。
パレスチナで思ったのだが、ハンダラ(パレスチナを象徴するキャラクター)が後ろで手を握っているのはそういうことなのではないのだろうかと。この地に住み、アラビア語で書籍や報道を読み解く。そして、紛う方なき視点で物事を捉え考えないと、理解できない問題なのだと思う。それでも、国力の差と貧困。自国政府も他国もあてにはならず、強国に振り回される状況をどうやって打開していくのか。恐らく、誰にも見当はつかないだろう。
しかし、最後に「僕らの活動に関して」言葉を頂いた。「面白いアイディアだと思う。けど、もっと影響力が必要ですね。僕たちが(戦争を)止めたくても、政府が止まらないわけだから」と。「その通りです。僕らは世界の持つ問題の前で小さい存在ですが、活動し続けなければらないと思います。」と言った。「もちろん私もそう思います」と。
最後に握手をして例を言った。すると「どうもありがとうございました」と日本語が聞こえた。余りの発音の正確さに、我々以外に日本人がいると思ったほど。彼は日本のアニメが好きで、日本語の基本的な言葉を学び覚えているという。実は知日家だったのだ。
お礼に、かおりの歌と私のウクレレで「上を向いて歩こう」を演奏した。「スキヤキソングと呼ばれる、世界中で最も有名な日本の歌だと言われています。すき焼きは日本の料理の名前なのですが、歌詞の意味は全く関係ありません。実は非常に抽象的な歌詞なのですが、私は、悲しい時でも歩き続けようじゃないかという意味でないかと思っています」と。
演奏し終わって、皆さんとお別れの挨拶をした。
帰りのウーバーの中でかおりが「我々が日本人だから、あれだけ話してくれたのかな?」と。そうかもしれない。距離も遠く、利害関係が薄いことから、比較的好意的思われていると思うから。
ウーバーのドライバーに「僕は国王とヨルダンの事が大好きなんだ。君は日本の事が好きかい?」と聞かれた。「もちろん大好きさ。特に、この旅を始めてからもっと好きになったよ」と。もちろん、問題や危惧していることはある。でも、僕は根っからの日本人で、やっぱり、どうしようもなく日本が大好きなのだ。だって、生卵ご飯食べたいし、出汁のたっぷりきいた味噌汁を飲みたい。
「普遍的な見方を身に着けるべきだ」というカントの言葉が、時々、卵ご飯で霞むことがある。それほど、根っから日本人なのだなあと、中東の喧騒の中で思ったのだ。
ソウリヤット・アクロス・ボーダーズ(以降S.A.B)はアンマン市内でシリア人難民の支援や教育活動を行っている民間組織だ。
最初、当てにしていた、シリア人難民コミュニティーへのコネクションから返信がなく、ヨルダンでの活動計画を最初から見直さなければならなくなった。パレスチナに行く数日前にホストであるイリーナさんから、この組織の名前を伺い、相談してみたらと勧められたのだ。パレスチナへの渡航準備とアンマン市内での生活の仕方に慣れるだけで1週間はあっという間に過ぎてしまった。
あてもなく訪問したパレスチナで思わぬ出会いに恵まれた。インタビューやキャンプへの訪問、期待していなかった撮影活動までできた。
パレスチナからアンマンに戻るだけで体力、精神、金銭と相当消耗した。翌日は完全にダウン。9月3日になってから、S.A.Bのホームページフォーマットから取材やアートワークショップについてのオファーをし、次の訪問国であるエジプトでの取材活動のキーマンであるハッサンさんを探したり、ネパールで芸術を通じた平和活動をされているサントシさんと連絡をとったりしていた。あっという間に時間が過ぎていく。
翌4日、ハッサンさんの連絡先は津村君のお陰で突き止めたものの、返事がなく本人かどうか確認がとれない。また、S.A.Bからの返信もない。イリーナさんから「直接行った方が話が早い」と連絡を頂く。唯一繋がったのは、ネパールのサントシさん。私たちが渡航して1週間はカトマンズにいないが、その後は大丈夫だという。一緒に世界の平和のために力を合わせましょうと。同じ志を持つ人の言葉に心が震えた。
5日になって、やっと物事が動き始めた。直接伺ったS.A.Bで、1日だが撮影とインタビューの機会を頂くことになった。また、翌週に子供向けの折り紙ワークショップもさせて頂くことになった。帰宅途中のウーバーの中で携帯が鳴った。エジプトのハッサンさんからだった。「もちろん覚えていますよ。返事が遅くなったのは風邪をひいていたからです」と「まずは風邪を治してください。また、しばらくしてからご連絡差し上げます」と。
暗礁ににのりあげかけていた、ヨルダンとエジプトでの活動がやっと動き始めた。何というか、毎度毎度、運がいいというか、人の情けと手助けで物事がうまく運ぶというか。ありがたいことである。また、S.A.Bメンバーとシリア国境を越えてボランティア活動に参加しないかというお誘いを頂いた。日本大使館はいかなる理由でも(報道関係を含め)渡航は認めない方針。ところが、日本大使館の意向に関わらず、シリア観光局からの渡航VISAが入手できて、信頼できるガイドと共に行動するのであれば入国を認めるという。
ヨルダンはシリア人難民に対して寛大な受け入れ政策をとっており、シリア政府からも信頼されているという。シリア国境を安全に超えることができて、難民の為に何かできるのだったら何が何でも行きたいという気持ちになった。かおりも同意してくれた。しかし、シリア観光局からVISAの発行に2週間かかると。3日足りない。これは諦めろということだと思った。
そして今日、やっとヨルダンでの実質的な活動が始まった。約束の時間にS.A.Bに伺い、英語教室の生徒さん方に撮影協力を呼びかける。また、先方が選択してくれた英語を喋ることができるシリア人難民からのインタビューに漕ぎつけることができた。
英語クラス終了後、撮影に興味を示してくださった方々に活動趣旨を説明。同意を得た後、撮影を開始した。結果的に、興味を示してくださった皆さんは全員、撮影に協力してくださった。ただ、女性はひとりもいなかった。イスラム圏で女性の撮影は難しいだろうなと思っていたが、これほどとは。
皆さんとても気さくで、中には日本語の挨拶をしてくださった方もいらっしゃった。ただ、忘れてはならないのが、この気さくな笑顔で協力をしてくださった皆さんの多くが、シリアからの難民であるということだ。
撮影後、応接室にてインタビューを録らせていただいた。足代に10ディナールかかるという話だったのでどういうことがと思っていたら、足が不自由な方で車いすでいらした。20歳の青年で、シリアの首都ダマスカス近郊出身。軍の攻撃が激しくなり、街は破壊され人々が殺される中、ヨルダンの国境を越えて難民となった。難民生活の始まりは大変だったが、仲間が増え、S.A.Bの支援もあり、次第に良くなっていったと。先も述べたが、ヨルダンはシリア人難民に対して寛容だったので、アンマンにくることになったのだそうだ。
また、どうしたら平和な世の中になると思いますか。特に「この地域」についてなのですがという質問をした。彼は笑いながら「これは難しい問題ですねー」と。「それは承知していますが、お答えいただきたいのです」お願いすると本音を話してくださった。内容をまとめると「民族同士で武器を持ち土地や利権を奪い合う限り、また、強い国と弱い国が存在する限り、戦争は無くならないんじゃないかと思っている」ということ。そうだよな。時々、笑いながら話をする彼は、実際に戦闘で国を追われ、異国の地でハンディキャップを抱えながらも一生懸命に生きているのだ。そんな彼からの「戦争はなくならない」という言葉は、平和を希求する我々の活動の存在意義を揺るがすものだ。しかし、何故かすんなりと彼の言うことを受け入れることができた。それはきっと、パレスチナ訪問後、僕も同じことを考え始めていたからなのだろう。
世界は想像を超えている。しかも、我々日本人にとっては、その歴史的背景や支配構造を正確に理解することは難しいと思われるのだ。書籍や報道はなされているが、そのほとんどは英語によってなされている。さらに、それが日本語に訳されて我々の元に届く。もちろん、その中立性や客観性を保ちつつ報道されているのは分かる。翻訳も然り。ただ、英語圏メディアというフィルターを通った時点で、問題そのものに「完全に奥底まで踏み込めない原因が存在する」と思う。
パレスチナで思ったのだが、ハンダラ(パレスチナを象徴するキャラクター)が後ろで手を握っているのはそういうことなのではないのだろうかと。この地に住み、アラビア語で書籍や報道を読み解く。そして、紛う方なき視点で物事を捉え考えないと、理解できない問題なのだと思う。それでも、国力の差と貧困。自国政府も他国もあてにはならず、強国に振り回される状況をどうやって打開していくのか。恐らく、誰にも見当はつかないだろう。
しかし、最後に「僕らの活動に関して」言葉を頂いた。「面白いアイディアだと思う。けど、もっと影響力が必要ですね。僕たちが(戦争を)止めたくても、政府が止まらないわけだから」と。「その通りです。僕らは世界の持つ問題の前で小さい存在ですが、活動し続けなければらないと思います。」と言った。「もちろん私もそう思います」と。
最後に握手をして例を言った。すると「どうもありがとうございました」と日本語が聞こえた。余りの発音の正確さに、我々以外に日本人がいると思ったほど。彼は日本のアニメが好きで、日本語の基本的な言葉を学び覚えているという。実は知日家だったのだ。
お礼に、かおりの歌と私のウクレレで「上を向いて歩こう」を演奏した。「スキヤキソングと呼ばれる、世界中で最も有名な日本の歌だと言われています。すき焼きは日本の料理の名前なのですが、歌詞の意味は全く関係ありません。実は非常に抽象的な歌詞なのですが、私は、悲しい時でも歩き続けようじゃないかという意味でないかと思っています」と。
演奏し終わって、皆さんとお別れの挨拶をした。
帰りのウーバーの中でかおりが「我々が日本人だから、あれだけ話してくれたのかな?」と。そうかもしれない。距離も遠く、利害関係が薄いことから、比較的好意的思われていると思うから。
ウーバーのドライバーに「僕は国王とヨルダンの事が大好きなんだ。君は日本の事が好きかい?」と聞かれた。「もちろん大好きさ。特に、この旅を始めてからもっと好きになったよ」と。もちろん、問題や危惧していることはある。でも、僕は根っからの日本人で、やっぱり、どうしようもなく日本が大好きなのだ。だって、生卵ご飯食べたいし、出汁のたっぷりきいた味噌汁を飲みたい。
「普遍的な見方を身に着けるべきだ」というカントの言葉が、時々、卵ご飯で霞むことがある。それほど、根っから日本人なのだなあと、中東の喧騒の中で思ったのだ。