ハマスもファタハも、何もしない。僕はパレスチナ政府のことが好きじゃない。パレスチナ行政府の建物の前を前を通ったときに、彼は言い放った。
過去に、ハマスとファタハ、二つのパレスチナ自治組織があることを理由に、イスラエルはパレスチナと実質的な平和に向けた交渉を(オスロ合意は守られていない)拒否できた。ところが、近年、過激派とされていたハマスとファタハが合同政府を作った(実際は二つの組織だけではなく諸派で議席を分け合っている)。この動きでイスラエルとしては交渉相手が明確になり、交渉を避ける名目がなくなったわけだが、交渉は遅々として進んでいない。イスラエルは交渉したくないのかもしれないし、パレスチナ政府側もどうしたらいいのか分からないでいるのかもしれない。
1947年の第1次中東戦争を端に、次第にパレスチナの土地が減っていく様子を地図で見せて頂いた。パレスチナ自治区は「ひとかたまり」の土地ではなく、飛び地になったり、イスラエルの入植を受けたりして自治区内を移動するのにも苦労するありさまだそうだ。
また、パレスチナ人でもイスラエルのパスポートを持つ人がいたり、自治区を出ることすらままならない人がいたり、その扱いにも様々な差別があるようだ。ちなみに、彼と婚約者の女性は、新婚旅行に行く予定なのだが、パレスチナ人である彼は自治区を出ることができない。どうやって国外に出ることができるのか聞いてみた。「死海西岸にキングフセイン橋までパスポートコントロールを通る必要がないルートが存在するんだ。そこを抜けて、ヨルダンから飛行機に乗る。難しい事だけど、僕は何度かしているから大丈夫」と。
また、彼は世界事情に広く通じている。驚いたのは「二つの中国」所謂、中国と台湾の成り立ちや、香港の事情について非常に詳しく知っていたこと。また、毛沢東や蒋介石の話にも触れ、漢字の簡体と繁体についても話が及んだ。
朝9時に出発。午前中でも日差しは凄まじい。対して日陰は信じられないぐらい涼しい。路地を出て突き当りの商店でお昼ご飯のチョコデニッシュを買い、バス停に向かった。パレスチナ自治区からエルサレムへ行く場合は、所謂「壁」を超える際にパスポートコントロールがある。ここエルサレムやパレスチナは、丘と谷の街と言ってもいい。丘の上から、一旦下り、急な上り坂をゆっくりと上がりながらバス停を目指す。
昨晩、婚約者さんからバス停の場所を教わっていたのと、かおりのスーパーGPSで難なく到着。(ちなみに、僕一人ではたどり着けないと思った)建物の陰で涼をとり、バスを待っていると、同じように現地の方が陰で涼をとっていらしたので話しかけた。「231番線をお待ちですか?」「いや、友人が車で拾いに来てくれるの」「そうですか。バスをお待ちだと思っていました」「エルサレムに行くの?」「そうです」「どちらまで?」「ダマスカスゲートです」「ああ、終点だから安心ね。あと10分ぐらいで来ると思うけど」「ところで、バスはここにいても停まってくれますか?」「あっちの、誰が置いたか分からないけど椅子があるでしょ?あそこでしか停まってくれないわ」「分かりました、ご親切にありがとう」ちゃんとしたバス停が50m程下ったところにあるのだが、そこでは停まらないそうだ。不思議なシステムに苦笑い。
10分ほどでバスがやってきた。椅子に走って手を振るとバスは止まった。こちらのバスは、乗車してからドライバーに料金を支払う。二人で約15シェケル(450円)だ。割と高い・・・。後部座席に座りエルサレムを目指す。
エルサレムからパレスチナ行きのバスではパスポートチェックはない。しかし、逆は様子が全く異なる。
所謂「壁」を超えるとき、自動小銃を構えたイスラエル兵が二人で厳しい面持ちで「パスポートかドキュメントを掲げろ!」と叫びながらバスに乗り込んでくる。かなり威圧的な姿勢にちょっとビビる。海外パスポートの私たちは一瞥されただけで済んだが、問題はドキュメントを持った人たち。入念にドキュメントを見られる。その中の一人が、厳しい口調で何やら責め立てられていた。その間、約2分ほどだったとおもうが、バスの中は緊張感でいっぱいだった。
彼らが立ち去った後、バスの中は元の雰囲気に戻ったが、僕は少しドキドキしていた。2000年前からこの地に住まい続けてきたパレスチナ人。ヨーロッパで虐げられて、この地に入植を始めたユダヤ人。この地は自分らのものであったと2000年前のことを言われて、追い出され続けるパレスチナ人の心中が穏やかでないことはもちろん分かる。
ただ、ホロコースト以前から、ヨーロッパでずっと虐げられていたユダヤ人の立場もわかるのだ。
オスロ合意を元に、お互いを承認し、これからのより良い未来を模索する可能性があったにもかかわらず、それは未だに成し遂げられず、事実上、その合意はすでに意味をなしていないように思われる。現在も、ここから離れた、ガザ地区では厳しい封鎖と容赦ない殺害が行われている。
そんな状況を知りながらの、エルサレム巡りは、やはりこの地の持つ複雑な状況を如実に表しているように思われた。バスの終点であるダマスカス門から、嘆きの壁に出た。壁の向こうにあったと言われるソロモンの神殿の消失を嘆くユダヤ教徒の向こうには、岩のドームとアルアクサーモスクが立つ。さらに複雑な歴史を裏付けるように、嘆きの壁周辺では遺跡発掘調査がなされていた。
まるで迷路のようなエルサレムを歩き回り、聖墳墓教会に到着。世界中から集まったとみられる信者たちが熱心に祈りをささげている。キリストの石墓への立ち入りはできるのだが、2時間待ちだというので諦めた。仏教徒ではあるが、一時期熱心に教会に通い、聖書を学んだ者としては、その奇跡に触れたいという思いはあったが、洗礼を受けるに至らなかったこともあり、きっぱりと諦めた。かおりからも「信者の皆さんにとって大変神聖な場所であるから、仏教徒である我々が入ることは憚られる」と。そうだなと。
教会を出ると、目の前にはオマールモスク。ちなみに、聖墳墓教会のカギの管理をしているのはイスラム教徒であるという。
それぞれの聖地で熱心に祈りをささげる姿を見ていて、彼の言葉と、ヨーロッパで撮影を拒否したキリスト教徒女性二人の話が交錯する。
「3つの宗教の言う神は同じである」「どうしても他の宗教と相いれないの」
同じ神を仰ぎながら、その入り口である宗教の違いで相いれない。経緯は分かる。だが、その神はその考えや行為を果たして喜ぶだろうか。
ダマスカスゲートを抜けバス停に戻った。帰りはパスポートコントロールもなく穏やか。最寄りのバス停で下車して、地元のビールを買って帰宅した。それからインスタントラーメンを作り、ビールを飲んだら、疲れがどっと出て3時から6時ぐらいまで眠ってしまった。
目が覚めると、彼が仕事から帰ってきた。英語が堪能でいろいろな事情に詳しい。話をしていてとても楽しい。
今日の出来事を話して、僕らはお先に夕食を頂いた。彼らの夕食は10時ごろなのだ。涼しいし、一緒に犬の散歩に出かけないかと言われた。外は爽やかな風が吹き、星が出ていた。星を見て思った。そうか、ここは全く緯度の違う海外なのだ。あるべき場所に星がない。そう思いながら星を見ていたら「日本の星空と違うかい?」と。「ええ。全く違います」北辰斜めに差さず、地平線に近い。
昨晩のバトミントンもそうだが、僕はきっとこの瞬間を一生忘れないだろうと思った。複雑な場所での何気ない日常。この対比がそうさせるのかもしれないなあと思いながら、彼らの後を追った。
画像は「嘆きの壁」ソロモンの宮殿があったであろう場所には、岩のドームとモスクが立つ。
過去に、ハマスとファタハ、二つのパレスチナ自治組織があることを理由に、イスラエルはパレスチナと実質的な平和に向けた交渉を(オスロ合意は守られていない)拒否できた。ところが、近年、過激派とされていたハマスとファタハが合同政府を作った(実際は二つの組織だけではなく諸派で議席を分け合っている)。この動きでイスラエルとしては交渉相手が明確になり、交渉を避ける名目がなくなったわけだが、交渉は遅々として進んでいない。イスラエルは交渉したくないのかもしれないし、パレスチナ政府側もどうしたらいいのか分からないでいるのかもしれない。
1947年の第1次中東戦争を端に、次第にパレスチナの土地が減っていく様子を地図で見せて頂いた。パレスチナ自治区は「ひとかたまり」の土地ではなく、飛び地になったり、イスラエルの入植を受けたりして自治区内を移動するのにも苦労するありさまだそうだ。
また、パレスチナ人でもイスラエルのパスポートを持つ人がいたり、自治区を出ることすらままならない人がいたり、その扱いにも様々な差別があるようだ。ちなみに、彼と婚約者の女性は、新婚旅行に行く予定なのだが、パレスチナ人である彼は自治区を出ることができない。どうやって国外に出ることができるのか聞いてみた。「死海西岸にキングフセイン橋までパスポートコントロールを通る必要がないルートが存在するんだ。そこを抜けて、ヨルダンから飛行機に乗る。難しい事だけど、僕は何度かしているから大丈夫」と。
また、彼は世界事情に広く通じている。驚いたのは「二つの中国」所謂、中国と台湾の成り立ちや、香港の事情について非常に詳しく知っていたこと。また、毛沢東や蒋介石の話にも触れ、漢字の簡体と繁体についても話が及んだ。
朝9時に出発。午前中でも日差しは凄まじい。対して日陰は信じられないぐらい涼しい。路地を出て突き当りの商店でお昼ご飯のチョコデニッシュを買い、バス停に向かった。パレスチナ自治区からエルサレムへ行く場合は、所謂「壁」を超える際にパスポートコントロールがある。ここエルサレムやパレスチナは、丘と谷の街と言ってもいい。丘の上から、一旦下り、急な上り坂をゆっくりと上がりながらバス停を目指す。
昨晩、婚約者さんからバス停の場所を教わっていたのと、かおりのスーパーGPSで難なく到着。(ちなみに、僕一人ではたどり着けないと思った)建物の陰で涼をとり、バスを待っていると、同じように現地の方が陰で涼をとっていらしたので話しかけた。「231番線をお待ちですか?」「いや、友人が車で拾いに来てくれるの」「そうですか。バスをお待ちだと思っていました」「エルサレムに行くの?」「そうです」「どちらまで?」「ダマスカスゲートです」「ああ、終点だから安心ね。あと10分ぐらいで来ると思うけど」「ところで、バスはここにいても停まってくれますか?」「あっちの、誰が置いたか分からないけど椅子があるでしょ?あそこでしか停まってくれないわ」「分かりました、ご親切にありがとう」ちゃんとしたバス停が50m程下ったところにあるのだが、そこでは停まらないそうだ。不思議なシステムに苦笑い。
10分ほどでバスがやってきた。椅子に走って手を振るとバスは止まった。こちらのバスは、乗車してからドライバーに料金を支払う。二人で約15シェケル(450円)だ。割と高い・・・。後部座席に座りエルサレムを目指す。
エルサレムからパレスチナ行きのバスではパスポートチェックはない。しかし、逆は様子が全く異なる。
所謂「壁」を超えるとき、自動小銃を構えたイスラエル兵が二人で厳しい面持ちで「パスポートかドキュメントを掲げろ!」と叫びながらバスに乗り込んでくる。かなり威圧的な姿勢にちょっとビビる。海外パスポートの私たちは一瞥されただけで済んだが、問題はドキュメントを持った人たち。入念にドキュメントを見られる。その中の一人が、厳しい口調で何やら責め立てられていた。その間、約2分ほどだったとおもうが、バスの中は緊張感でいっぱいだった。
彼らが立ち去った後、バスの中は元の雰囲気に戻ったが、僕は少しドキドキしていた。2000年前からこの地に住まい続けてきたパレスチナ人。ヨーロッパで虐げられて、この地に入植を始めたユダヤ人。この地は自分らのものであったと2000年前のことを言われて、追い出され続けるパレスチナ人の心中が穏やかでないことはもちろん分かる。
ただ、ホロコースト以前から、ヨーロッパでずっと虐げられていたユダヤ人の立場もわかるのだ。
オスロ合意を元に、お互いを承認し、これからのより良い未来を模索する可能性があったにもかかわらず、それは未だに成し遂げられず、事実上、その合意はすでに意味をなしていないように思われる。現在も、ここから離れた、ガザ地区では厳しい封鎖と容赦ない殺害が行われている。
そんな状況を知りながらの、エルサレム巡りは、やはりこの地の持つ複雑な状況を如実に表しているように思われた。バスの終点であるダマスカス門から、嘆きの壁に出た。壁の向こうにあったと言われるソロモンの神殿の消失を嘆くユダヤ教徒の向こうには、岩のドームとアルアクサーモスクが立つ。さらに複雑な歴史を裏付けるように、嘆きの壁周辺では遺跡発掘調査がなされていた。
まるで迷路のようなエルサレムを歩き回り、聖墳墓教会に到着。世界中から集まったとみられる信者たちが熱心に祈りをささげている。キリストの石墓への立ち入りはできるのだが、2時間待ちだというので諦めた。仏教徒ではあるが、一時期熱心に教会に通い、聖書を学んだ者としては、その奇跡に触れたいという思いはあったが、洗礼を受けるに至らなかったこともあり、きっぱりと諦めた。かおりからも「信者の皆さんにとって大変神聖な場所であるから、仏教徒である我々が入ることは憚られる」と。そうだなと。
教会を出ると、目の前にはオマールモスク。ちなみに、聖墳墓教会のカギの管理をしているのはイスラム教徒であるという。
それぞれの聖地で熱心に祈りをささげる姿を見ていて、彼の言葉と、ヨーロッパで撮影を拒否したキリスト教徒女性二人の話が交錯する。
「3つの宗教の言う神は同じである」「どうしても他の宗教と相いれないの」
同じ神を仰ぎながら、その入り口である宗教の違いで相いれない。経緯は分かる。だが、その神はその考えや行為を果たして喜ぶだろうか。
ダマスカスゲートを抜けバス停に戻った。帰りはパスポートコントロールもなく穏やか。最寄りのバス停で下車して、地元のビールを買って帰宅した。それからインスタントラーメンを作り、ビールを飲んだら、疲れがどっと出て3時から6時ぐらいまで眠ってしまった。
目が覚めると、彼が仕事から帰ってきた。英語が堪能でいろいろな事情に詳しい。話をしていてとても楽しい。
今日の出来事を話して、僕らはお先に夕食を頂いた。彼らの夕食は10時ごろなのだ。涼しいし、一緒に犬の散歩に出かけないかと言われた。外は爽やかな風が吹き、星が出ていた。星を見て思った。そうか、ここは全く緯度の違う海外なのだ。あるべき場所に星がない。そう思いながら星を見ていたら「日本の星空と違うかい?」と。「ええ。全く違います」北辰斜めに差さず、地平線に近い。
昨晩のバトミントンもそうだが、僕はきっとこの瞬間を一生忘れないだろうと思った。複雑な場所での何気ない日常。この対比がそうさせるのかもしれないなあと思いながら、彼らの後を追った。
画像は「嘆きの壁」ソロモンの宮殿があったであろう場所には、岩のドームとモスクが立つ。