2019年8月24日土曜日

3年前に出会った青年について

ウクライナでは依然として、ロシアによるプロパガンダが続き、ドネツク周辺やクリミア半島といった、ロシアが実行支配している地域から難民が脱出している。そして、牧師であり、そういった難民の支援活動家でもあるのが、彼なのだ。彼は自分の住所や個人情報の取扱いにとても注意深い。なので、滞在中の記録の一部はネット上に掲載しないことにした。フェイスブックやグーグルの個人情報はロシア当局に抑えられているようで、彼らは個人的な通信を私書箱や人伝でしかやりとりしない。もちろん、SNSは使ってはいるが、そういったデリケートな活動や問題に関しては一切公開していない。

3年前、独立広場への道には紛争の後が色濃く残っていた。戦闘で使われたヘルメットやガスマスク等が道端に転がっていた。そしてそのヘルメットを差して「あれはウクライナの独立を妨げるテロリストのものだ」と語る男性2人と出会った。経緯を英語でやり取りしたのを覚えている。また、テロリストは市民の武装援助もしたとも。一方で、真逆の事を言う市民もいた。彼らはウクライナの英雄だと。

彼曰く「それはロシアのプロパガンダだと思う。そうやって誤った情報を流し、次第に自分たちにとって都合のよい状況を作るのだ」と。「観光客にまでそんなことをしているのか・・・」と大きなショックを受けた。彼らはロシアの工作員だった可能性があるのだ。

2014年の紛争が起こる前、彼は、テレビや街中でロシアのプロパガンダが始まったのを覚えているという。その時、ドネツクに出稼ぎに行っていたのだという。最初は気にも留めていなかったという。そのプロパガンダが、いったい何のために、また、誰をターゲットにしているのかも分からなかったと。ところが、キエフの独立広場で起こったオレンジ革命に、腕に腕章の無い「どこに所属しているのか分からない軍人たち」が現れ、戦闘が始まったのだというのだ。

その後、ロシア軍はウクライナ東部に侵攻し、ウクライナ軍との戦闘が起こった。東部地区の男性は戦闘員として駆り出され、経済が機能しなくなり、街中に生活困難者が溢れたという。彼は一旦ハリコフに逃れたものの、何重ものチェックポイントを掻いくぐりドネツクに戻り、生活物資や食料を運んだという。そしてドネツクのセントラルスクエアで、4日間に渡り、日に日に増える生活困難者に炊き出しをしたり、生活用品を配布したりしたという。しかも、泥くべきことに政府も、地方自治体も、警察も、この事態を放置したのだという。

その後も、ロシア軍とウクライナ軍がにらみ合う前線で、逃れてくる難民を確保し、安全な場所へ移し、新たな生活を始められるように導く活動を続けている。

衝撃だったのは、土曜日に講師として招待された教会の青年部の集まり。後で教えてもらったのだが、参加者中、普通に保護者とハリコフで生活できているのは、4人だけで、あとは全て難民だということだった。クリミア在住の姉妹は、ハリコフに滞在中、故郷のクリミアで紛争が起こり、帰ることができなくなったと。現在、家族がばらばらになっており、保護者と秘密裏に連絡を取ったり、状況を伝えあったりしているという。

「平和!ウクライナからこんにちは!」と笑顔で語っている彼らの殆どは、難民で何らかの困難を抱えてハリコフの難民キャンプやシェルターで生活しているのだ。

彼らは週末に集会所に集まり、聖書の勉強やこれから自分たちが何をすべきなのか学び、活動の企画をし実践する。後に、それぞれは別々の場所でそれぞれのコミュニティを持つことになるだろう。そうすることで、平和を共有できる人が少しづつ増えていくと。そうやってウクライナに再び平和を取り戻すのだと。小さなことかもしれないが、世界においてもウクライナ情勢においても、彼の平和へのプロセスは同じだという。少しづつ、影響を与え合い、仲間を増やし、正しい世の中を作っていく。そして、今、彼はまさにそれを実践しているのだ。

ロシアは未だに、ウクライナの分断を狙いプロパガンダを続け、個人情報の収集や買収を行っているという。彼らはロシアの動きに非常に注意を払っている。事実、我々と連絡を取るときや、活動に関するデーターのやり取りをする時には、私書箱や、信頼できる人物づて、または特別なアプリケーションを使用する。

映画に使う前提で彼のインタビューを録ったのだが、彼は実名を明かし、活動内容を赤裸々に話した。映画に使ってよいと改めて言ってくれたし、難民救助の活動に関する動画や資料も別便で送ってくれると言った。映像も使ってよいという。だが、ウクライナ国内でこれだけ慎重に活動している彼らを見ていると、本当に公開していいのかと心配になってしまう。

しかも、彼には守るべき家族もある。私の活動が彼らに迷惑をかけてしまうのではないかと思うのだが。「今、我々がここで出会い、こういう話をするに至ったのは神の導きでもある」と。信仰の力が彼の強い信念を支えていると言える。

そして僕も考えている。今、僕がここにいる意味を。彼に出会った意味を。この活動をしている意味を。そして、世界が抱える闇を身近に感じたことを、芸術家として如何にして伝えていくか。

ある程度想像はしていたが、とんでもないことに足を突っ込んでしまっているようだ。島国で平和に育った我々には想像すらできない現実に出会う。「想像力」と「対話」が世界を平和へと導く唯一の道ではないかと思っているが、広がる闇に対して、忍び寄る危険に対して、「想像力」と「対話」がどれだけの力を持つのか。時間はかかるだろうとは思ってはいるが、人の持つ闇に対して、市民はどう対処すればいいのか。謎は深まるばかりだ・・・。

ハリコフを去るとき、中央駅に文字が刻まれた石板があった。2014年に起こった紛争で難民たちがここに大量に集まった。ボランティアや善意の力が彼らを助けたということが書いてあるのだと。

彼の振る舞いから考えて、少なくとも、ウクライナ国内にいる間は、このことはフェイスブックやブログには書けないと判断した。

シビアな現実の中で生活し、難民救出をしている。奥様もそれを理解している様子だった。世界の平和は、こういう人に支えられてもいるのだということを、目の当たりにした。3年前の深夜、病院で話しかけてきた優しそうな青年は、聖職者であり、難民を保護する活動家でもあったのだ。

世界を知るには「想像力」が必要だと言っているが、ここでの一連のできごとは、全てが想像を超えていた。

そして、現在、ヨルダンにいる。未だ、シリアスな場面には一度しか遭遇していないが世界には「想像力」ではカバーしきれない、想像を絶する現実がそこら中にある。

想像だけではカバーしきれないことが多いのだ。だが「想像する」ことを止めるとどうなるか。きっと、レイシズムやポピュリズムが促進され、民主主義の名を借りた高圧的な政治体制が出来上がるのではないかと危惧している。それは、すなわち、世界の分断を意味し、相互理解を阻むものだと思う。

※中東はネット環境が一定せず、文字だけの投稿です。