欧州滞在があと2日で終わる。この後、旅は中東、アジアと進む予定。アジアのモンスーンを避けるのと、物価の高い地域での滞在を先に済ませておけば、後の計算がしやすかろうということで、4月末から8月中旬まで欧州滞在することになったわけです。
欧州に長居して、未知の事に触れることが、相当多かった。ショックに次ぐショックで、自分の人格まで変わってしまったような4か月となったのではと。だって、凄いもの・・・。芸術にしろ政治にしろ、なんだこりゃっておもってしまった(清濁併せて)。
これまでひたすら侵略や紛争を繰り返してきた欧州地域です。で、そこでたまたま目にしたEU議会選挙。列車で隣になった人や、撮影に協力してれた人、僕らを宿泊させてくれたホストや、現地の友人たちは、皆、自分の意見を持ち、よりよい未来を目指して、それぞれが有権者・表現者として自我をしっかり持っているように見えました。でも、EU議会選挙の投票率は全体で50パーセントちょっとだったので、意識高い系(投票率を上げた人)の人々が撮影に協力してくれたり、話に応じてくださったり、議論になったりしたのだと思っているのです。
さてさて、ヨーロッパの旅の終わりを迎えるにあたって、半世紀ほど前に流行ったものとは違う、根源的なインターナショナリズム(プロレタリア・インターナショナリズムとは別です)とは何かを模索する時期に来ていると思っています。
その具体的な発露がEUという試みだったのではと。先日のEU議会選挙は、史上最高の投票率でだったそうで、このことが、極右政党やEU懐疑政党の躍進を止めたと言われています。特に、東欧を中心とした旧共産圏での投票率が高かったそうで、現地の人々に話を聞くと、やはり新たな国境を超えた枠組みとしてのEUの将来を危惧する思いが強いようです。EUの解体は即ち弱者の切り捨て(それだけではありませんが)でもあり、一部、ナショナリズムの台頭ともいえるのかもしれない。選挙結果の分析やイギリスの動向について、東欧では盛んに報道がなされていいます。(完璧に聞き取れてはいませんが笑)
現在もスペイン、ギリシャの金融危機や、シェンゲン圏内での通貨価値の差が原因で、全てが上手くいっているとはいえませんが、それでもヨーロッパの人々は懸命に過去と向き合おうとし、何とか新たな未来を切り開こうとしているように見えます。
そこで私が思うのが「それぞれの表現の自由を尊重する雰囲気の醸成」がしっかりとなされているということです。
でもナチスドイツ賛美に関しては法律で不可として、表現を規制しています。行政側が表現の自由をどこまで認めるのかということに関しては、随分、こちらは見識が進んでいるように感じます。とかいいながら、ポーランドでは自国にとって都合の悪い歴史を否定しているような法案が成立していますが・・・これを選んでいるのも、他ならぬ民主主義というのが大切なポイントだと思います。
一般の人々が、政治に関心を持って「過去の過ちを繰り返すまい」という強い意識を、こちらで、しばしば感じるのです。
また、別件ですが、表面的には親日派が多いように見える欧州ですが、正直、殆どの人が「極東には関心がない」というのが実情です。また、民主主義や表現の自由、人権意識に関しても、随分、日本の政治は遅れている感じがするのです。(私見です)。
ただ、あいちビエンナーレでの一件で、黙っていた人々が議論に参加し始め、表現の自由とは何だという議論が、久しぶりに全体的に広がっていることは、僕にとって嬉しい事です。
(それぞれの作品の是非は置いておいて、人々が表現について関心を持ち議論するということが嬉しいのです)
そして、それが、お互いを理解し、時間はかかれども、より良い未来に向かって思いを一つにできる日が来ることを祈っています。この議論を、国民がどのように受け止め、政治にどのように反映させるのか、益々、議論がなされることを祈ります。そして、それが日本の評価(アニメや文化やテクノロジーだけでなく)を決定づけるのだと思います。
海に囲まれた日本と欧州では事情も環境も違いますが、もっと海外事情に目を向けて、学び、世界全体をどうしていけばいいのか考えなければ、そのうち、一部の親日家もそっぽを向くような気がしてなりません。
あと、アウシュビッツビルケナウでは笑顔で写真なんか撮る人は一人もいませんでした。ところが、広島や長崎ではどうでしょう?過去から学び、平和について考え、ホロコーストの犠牲者の立場に立って運営されている現状を目の当たりにして、昨年、広島の原爆ドームの前で体内被曝者の方が仰っていた言葉を、最近、良く思いだすのです。「この場はいったい何のためにあるのか。観光のためではない。そこで笑顔でピースサインしながら写真撮影をする観光客を見て怒りさえ覚える」
受け手側の想像力の欠如。また、行政の責任も大きいと思います。しっかりとした議論がなされ、方向性をしっかりと持ち、施設を運営していく。そしてそれを、しっかりと打ち出す。そんな「民主主義」がしっかりと根付いてくれないかと思う次第です。
中東での旅は、恐らく混沌というかカオス。それらが僕にどんな変化を与えてくれるのか。とても・・・た・・・の・・・し・・・み・・・で・・・す・・・。
欧州に長居して、未知の事に触れることが、相当多かった。ショックに次ぐショックで、自分の人格まで変わってしまったような4か月となったのではと。だって、凄いもの・・・。芸術にしろ政治にしろ、なんだこりゃっておもってしまった(清濁併せて)。
これまでひたすら侵略や紛争を繰り返してきた欧州地域です。で、そこでたまたま目にしたEU議会選挙。列車で隣になった人や、撮影に協力してれた人、僕らを宿泊させてくれたホストや、現地の友人たちは、皆、自分の意見を持ち、よりよい未来を目指して、それぞれが有権者・表現者として自我をしっかり持っているように見えました。でも、EU議会選挙の投票率は全体で50パーセントちょっとだったので、意識高い系(投票率を上げた人)の人々が撮影に協力してくれたり、話に応じてくださったり、議論になったりしたのだと思っているのです。
さてさて、ヨーロッパの旅の終わりを迎えるにあたって、半世紀ほど前に流行ったものとは違う、根源的なインターナショナリズム(プロレタリア・インターナショナリズムとは別です)とは何かを模索する時期に来ていると思っています。
その具体的な発露がEUという試みだったのではと。先日のEU議会選挙は、史上最高の投票率でだったそうで、このことが、極右政党やEU懐疑政党の躍進を止めたと言われています。特に、東欧を中心とした旧共産圏での投票率が高かったそうで、現地の人々に話を聞くと、やはり新たな国境を超えた枠組みとしてのEUの将来を危惧する思いが強いようです。EUの解体は即ち弱者の切り捨て(それだけではありませんが)でもあり、一部、ナショナリズムの台頭ともいえるのかもしれない。選挙結果の分析やイギリスの動向について、東欧では盛んに報道がなされていいます。(完璧に聞き取れてはいませんが笑)
現在もスペイン、ギリシャの金融危機や、シェンゲン圏内での通貨価値の差が原因で、全てが上手くいっているとはいえませんが、それでもヨーロッパの人々は懸命に過去と向き合おうとし、何とか新たな未来を切り開こうとしているように見えます。
そこで私が思うのが「それぞれの表現の自由を尊重する雰囲気の醸成」がしっかりとなされているということです。
でもナチスドイツ賛美に関しては法律で不可として、表現を規制しています。行政側が表現の自由をどこまで認めるのかということに関しては、随分、こちらは見識が進んでいるように感じます。とかいいながら、ポーランドでは自国にとって都合の悪い歴史を否定しているような法案が成立していますが・・・これを選んでいるのも、他ならぬ民主主義というのが大切なポイントだと思います。
一般の人々が、政治に関心を持って「過去の過ちを繰り返すまい」という強い意識を、こちらで、しばしば感じるのです。
また、別件ですが、表面的には親日派が多いように見える欧州ですが、正直、殆どの人が「極東には関心がない」というのが実情です。また、民主主義や表現の自由、人権意識に関しても、随分、日本の政治は遅れている感じがするのです。(私見です)。
ただ、あいちビエンナーレでの一件で、黙っていた人々が議論に参加し始め、表現の自由とは何だという議論が、久しぶりに全体的に広がっていることは、僕にとって嬉しい事です。
(それぞれの作品の是非は置いておいて、人々が表現について関心を持ち議論するということが嬉しいのです)
そして、それが、お互いを理解し、時間はかかれども、より良い未来に向かって思いを一つにできる日が来ることを祈っています。この議論を、国民がどのように受け止め、政治にどのように反映させるのか、益々、議論がなされることを祈ります。そして、それが日本の評価(アニメや文化やテクノロジーだけでなく)を決定づけるのだと思います。
海に囲まれた日本と欧州では事情も環境も違いますが、もっと海外事情に目を向けて、学び、世界全体をどうしていけばいいのか考えなければ、そのうち、一部の親日家もそっぽを向くような気がしてなりません。
あと、アウシュビッツビルケナウでは笑顔で写真なんか撮る人は一人もいませんでした。ところが、広島や長崎ではどうでしょう?過去から学び、平和について考え、ホロコーストの犠牲者の立場に立って運営されている現状を目の当たりにして、昨年、広島の原爆ドームの前で体内被曝者の方が仰っていた言葉を、最近、良く思いだすのです。「この場はいったい何のためにあるのか。観光のためではない。そこで笑顔でピースサインしながら写真撮影をする観光客を見て怒りさえ覚える」
受け手側の想像力の欠如。また、行政の責任も大きいと思います。しっかりとした議論がなされ、方向性をしっかりと持ち、施設を運営していく。そしてそれを、しっかりと打ち出す。そんな「民主主義」がしっかりと根付いてくれないかと思う次第です。
中東での旅は、恐らく混沌というかカオス。それらが僕にどんな変化を与えてくれるのか。とても・・・た・・・の・・・し・・・み・・・で・・・す・・・。