ブルガリアの首都、ソフィアのメインストリート、ビトシャ通りでの撮影を開始した。我々はブルガリア語がからっきし。また、キリル文字でのメッセージボードができていなかったので、ブルガリア人で日本語堪能なマリアさんにサポートをお願いしての撮影となった。
まずは、ソフィア裁判所の前で待ち合わせして、ビトシャ通りのカフェで打ち合わせ。活動内容と今日フォローしてほしい事をお伝えした。活動内容の説明はいいとして、心配だったのは「キリル文字」のこと。メッセージボード書きを丸投げにするのは申し訳ないし、何より、しばらくキリル文字圏が続くので、少しは慣れなきゃなというのもあって自力で書いてみたのだ。それが正しい意味を成しているのかチェックをしてもららった。
We are on a trip around the world. にあたる部分の訳が、ちょっと怪しかったらしい。だが意味は間違いなく通じるとのことでOKを頂いた。
マリアさんは1949年の生まれ。当時はブルガリア人民共和国だった。1989年の民主化を経てブルガリア共和国になった時期を生き抜いてきた。少々立ち入ったことをお伺いしますがよろしいですかということで、「マリアさんから見た共産主義と資本主義」というインタビューを録らせていただいた。
ソ連は私たちにとって解放者と一緒。オスマン帝国の支配から解放してくれたのは彼らだから。露土戦争の時には、バルカン半島の住民もソ連兵と共に戦った。勝利をおさめブルガリアは独立を勝ち取った。共産圏だったころは、失業者もなく貧富の差もなかった。ポルノを始めとした有害なものもなかった。ところが自由化と共に、失業者が出始め、貧富の差が広がりはじめた。また、ブルガリアで学んだ優秀な人材が賃金の安さから海外に流出するという事態も起こっている。風紀は乱れ、人は本を読まなくなりゲームや携帯電話に時間を費やすようになった。だが、それは個人の自由であり、選択できる良さもある。あえて比較をしてもらったが「どちらも良いところがあり、悪いところもある」ということ。
両方を経験したからこそのお話を伺えてとてもよかった。また、様々な民族と宗教が混在しているこの国は、どのようにしてその「壁」を超えているのかという質問もした。「理由はありません。近所にイスラム寺院を作る時には、正教徒もユダヤ教徒も手伝う。宗教や考えかちがっても協力して生きる。昔からそうだから、それが当たり前なのです」という。
複雑な歴史をたどってきたバルカン半島のブルガリア。もしかしたら、そんな場所だからこそ「共存」への答えのようなものが存在するのかもしれないと思った。
そんな話をしていたら、マリアさんから「国立歴史博物館に行きませんか」とお誘いを頂いた。撮影を急ぎたかったが、これはこれで良い学びになるだろう。複雑な歴史を持つこの地の歴史を知ることで、平和へ繋がる手がかりのようなものがつかめるような気したのだ。
博物館は期待を裏切らなかった。また、トラキア時代の信じられないクオリティーの宝物の数々に圧倒される。いや、トラキア、半端ないです。日本が縄文時代後期だった頃に金銀製品をを鋳物で作っていたのだから。
そして、トラキア、ギリシャ、ローマ、スラブ、ブルガリア、フン族、トルコ、それだけでなく東西文化の交流地にあったこの地のそれぞれの歴史を否定することなく、全てをありのままに展示していた。その様子とマリアさんの話を反芻しながら「寛容」という言葉を思った。
現在を起点に、過去を否定することなく、今があるのは過去のお陰だという姿勢。何にでも良い部分があり、悪い部分がある。それを受け入れる。博物館はそんなことを僕に教えてくれているような気がした。
博物館を出て、撮影に向かう。撮影時間は短いものだったが、マリアさんの協力のお陰で27枚できた。現在、合計651枚である。
その後、夕食をご一緒してお別れした。地下鉄の駅までお見送りして、ふと気づく。僕は今いったいどこにいるのだ?すると、かおりが言う「あそこのイスラム寺院を抜けて右に温泉が湧き出るところがあって、左に曲がれば市場。24時間営業のスーパーがあって、その先が自宅」グーグルマップが要らない。そういえば、スペインでダビッドさんに帰り道を心配されたときにも「大丈夫です。かおりの頭の中には優秀なGPSが内蔵されています」と言って笑ったっけ。
かおりの言う通り、全てがそこにあり着いていくだけで自宅に帰り着いた。本当に衛星と通信しているのか、街を上から俯瞰しているのか。不思議だ。
明日は二人で撮影して、どうも上手くいかないようだったら、マリアさんにヘルプをお願いしようと思っている。
写真は、ビトシャ通りと自力で書いたキリル文字。ДとかЩとかどう書けばいいのか未だによくわからない・・・。
まずは、ソフィア裁判所の前で待ち合わせして、ビトシャ通りのカフェで打ち合わせ。活動内容と今日フォローしてほしい事をお伝えした。活動内容の説明はいいとして、心配だったのは「キリル文字」のこと。メッセージボード書きを丸投げにするのは申し訳ないし、何より、しばらくキリル文字圏が続くので、少しは慣れなきゃなというのもあって自力で書いてみたのだ。それが正しい意味を成しているのかチェックをしてもららった。
We are on a trip around the world. にあたる部分の訳が、ちょっと怪しかったらしい。だが意味は間違いなく通じるとのことでOKを頂いた。
マリアさんは1949年の生まれ。当時はブルガリア人民共和国だった。1989年の民主化を経てブルガリア共和国になった時期を生き抜いてきた。少々立ち入ったことをお伺いしますがよろしいですかということで、「マリアさんから見た共産主義と資本主義」というインタビューを録らせていただいた。
ソ連は私たちにとって解放者と一緒。オスマン帝国の支配から解放してくれたのは彼らだから。露土戦争の時には、バルカン半島の住民もソ連兵と共に戦った。勝利をおさめブルガリアは独立を勝ち取った。共産圏だったころは、失業者もなく貧富の差もなかった。ポルノを始めとした有害なものもなかった。ところが自由化と共に、失業者が出始め、貧富の差が広がりはじめた。また、ブルガリアで学んだ優秀な人材が賃金の安さから海外に流出するという事態も起こっている。風紀は乱れ、人は本を読まなくなりゲームや携帯電話に時間を費やすようになった。だが、それは個人の自由であり、選択できる良さもある。あえて比較をしてもらったが「どちらも良いところがあり、悪いところもある」ということ。
両方を経験したからこそのお話を伺えてとてもよかった。また、様々な民族と宗教が混在しているこの国は、どのようにしてその「壁」を超えているのかという質問もした。「理由はありません。近所にイスラム寺院を作る時には、正教徒もユダヤ教徒も手伝う。宗教や考えかちがっても協力して生きる。昔からそうだから、それが当たり前なのです」という。
複雑な歴史をたどってきたバルカン半島のブルガリア。もしかしたら、そんな場所だからこそ「共存」への答えのようなものが存在するのかもしれないと思った。
そんな話をしていたら、マリアさんから「国立歴史博物館に行きませんか」とお誘いを頂いた。撮影を急ぎたかったが、これはこれで良い学びになるだろう。複雑な歴史を持つこの地の歴史を知ることで、平和へ繋がる手がかりのようなものがつかめるような気したのだ。
博物館は期待を裏切らなかった。また、トラキア時代の信じられないクオリティーの宝物の数々に圧倒される。いや、トラキア、半端ないです。日本が縄文時代後期だった頃に金銀製品をを鋳物で作っていたのだから。
そして、トラキア、ギリシャ、ローマ、スラブ、ブルガリア、フン族、トルコ、それだけでなく東西文化の交流地にあったこの地のそれぞれの歴史を否定することなく、全てをありのままに展示していた。その様子とマリアさんの話を反芻しながら「寛容」という言葉を思った。
現在を起点に、過去を否定することなく、今があるのは過去のお陰だという姿勢。何にでも良い部分があり、悪い部分がある。それを受け入れる。博物館はそんなことを僕に教えてくれているような気がした。
博物館を出て、撮影に向かう。撮影時間は短いものだったが、マリアさんの協力のお陰で27枚できた。現在、合計651枚である。
その後、夕食をご一緒してお別れした。地下鉄の駅までお見送りして、ふと気づく。僕は今いったいどこにいるのだ?すると、かおりが言う「あそこのイスラム寺院を抜けて右に温泉が湧き出るところがあって、左に曲がれば市場。24時間営業のスーパーがあって、その先が自宅」グーグルマップが要らない。そういえば、スペインでダビッドさんに帰り道を心配されたときにも「大丈夫です。かおりの頭の中には優秀なGPSが内蔵されています」と言って笑ったっけ。
かおりの言う通り、全てがそこにあり着いていくだけで自宅に帰り着いた。本当に衛星と通信しているのか、街を上から俯瞰しているのか。不思議だ。
明日は二人で撮影して、どうも上手くいかないようだったら、マリアさんにヘルプをお願いしようと思っている。
写真は、ビトシャ通りと自力で書いたキリル文字。ДとかЩとかどう書けばいいのか未だによくわからない・・・。