2019年7月13日土曜日

プロブディフ

プロブディフはブルガリア第2の都市。今年、ヨーロッパの文化首都として指定されている。ソフィアとの決定的な違いは、都市の成り立ちがさらに古い(新石器時代の住居跡がある)事。また、トラキア人が紀元前4世紀にこの周辺一帯に国家を成した。その都市の一つだという。ソフィアよりも歴史のレイヤー深いようなのだ。そして、オスマントルコ時代の影響がより強く残っているらしい。

10時に自宅前で待っていると、ディアナさんの車がやってきた。私はてっきりバスが来ると思っていた。台湾からのツアー客を木曜日にプロブディフに案内するという話を聞いていたから。「台湾のお客さんたちとバスで来ると思っていたのに」と言うと「それは、明日。今日はこの車で、彼も一緒に行きます」と。紹介されたのはスタンチョさん。彼はドライバーとして小規模のツアーを企画するとともに、ガイドとしても働いている。また、英語が非常に堪能で、滅茶苦茶聞き取りやすくて、テンション上がる。もう、本当にありがたい。

行く途中、我々が古墳マニアであることを話した。で、今回は黒海近くの古墳に相当行きたかったのだが諦めたという話をした。すると、スタンチョさんが「プロブディフもトラキアの都市の一つで、古墳も存在するよ。十分見ごたえがあると思う」と。期待が高まる。兎に角、このブルガリアの歴史の複雑さが織りなす独特の文化。特に、時間軸と民族、宗教がかなり近いレイヤーに現在も残っているのが面白いのだ。今回、プロブディフ行きを決めたのは、何故、同じレイヤーに異文化が残るのか。私の想像だと、侵略や支配が変わると、以前の文化や言語、宗教までも大きく転換してしまうイメージがある。ブルガリアの面白いところは、それが何故かほぼ全て残っているところ。それが、首都ソフィアより色濃く残っているのだとしたら、相当に面白いし、今回の旅のひとつのテーマである「国境や人種、宗教という壁をどう乗り越えていくのか」のヒントがあるのかもしれないと思ったのだ。また、この街のメインストリートのど真ん中で、撮影もさせて頂けることになった。行かない手はない。

高速で1時間半で到着、の予定だったが途中で渋滞にはまる。車列は相当長い。恐らく事故だろうと。また、イスタンブールにルーツを持つ人々の休日だそうで、ヨーロッパじゅうから最短ルートのこの高速道路に車が集まるのだそうだ。なかなか進まない車列を見ながら、人身事故でなければよいがと。
会話が途切れて車窓を見やる。道沿いに広がる、広大なひまわり畑や水田。ひまわりは植物油を作るためだそう。どおりでスーパーのひまわり油が安わけだ。水田は日本のそれとは比較にならないほど広い。というか、超広大な湿地帯にしか見えない。ヨーロッパの農業は兎に角、郊外の広大な場所で大量に作物を作るという感じ。ひまわり畑もずーっと一面黄色のお花畑。写真を撮りそびれたので言葉でしか伝えられないが、その広さは日本人の持つ「畑」のイメージを超越して広大だ。(伝わるだろうか)

そうこうしていると、渋滞の先が見えてきた。トラックの積み荷の木材が路上に落下したのが原因だった。人身事故ではなくてほっとする。可哀想だったのは、徐行運転でエンジン温度が下がらずにオーバーヒートで止まる車が路肩に何台もいたこと。

渋滞を抜けるとスタンチョさんが「渋滞でイライラしてケンカにならないかと思って心配したよ。あーよかった」と。4人で笑いながら先を急いだ。


プロブディフに到着してまず驚いたのは、いきなりローマ時代の石で作られた道が、ほぼそのまま残っていいて、それが今でも使われていたこと。また、周辺の建物の多くが独特の建築様式を残していたことだ。聞けば建築物はオスマン帝国時代の建築様式をそのまま残しているそうで、ひとつの大きな建物にひと家族(親族)が集まって暮らしていると。ローマ帝国支配時代の東門を潜って丘の上を目指す。途中、教会や200年以上も現存している民家や教会を横目に見ながら。
山頂で我々を待っていたのは、石器時代、紀元前5~6千年前の遺跡。そこから複数の丘が見えた。それぞれの丘には名前がついているという。「死者の丘」「時計の丘」など。それぞれの丘にこれまでの歴史が層をなして残っているという。

どういうルートを歩いたのか、方向音痴の私には分からなかったが、ローマ時代の劇場やコロッセオ、イスラム寺院にカトリック教会、正教会、モスクはもちろんシナゴーグや、共産主義時代の壁画や建築まで、ありとあらゆる時代のものが存在していた。ちなみに、ローマ時代の劇場は、現在も稼働しており、訪ねた時はオペラの舞台のセッティング中だった。

何故なのだろう。過去の支配を負のものとせず残す。そして共存し、また大切にしている。また、スタンチョさんも文化や歴史がそのまま残り独特のレイヤーを持つこの「ミクスチャ」されたこの都市と文化がお気に入りだと。

大理石でできたコロッセオの観客席に刻まれた文字は座席番号を表すそうだ。粘土で作られたチケットにスタンプが押されてそれを持って入場したのだと。一度に2万人を収容して、グラディエーターたちが、数か所に分かれて戦ったのだという。で、驚いたのはローマ時代当時の排水溝が現在も普通に使われていたこと。おそるべしプロブディフ。

目にする全てが驚きの連続で空腹を忘れてしまっていたが、すっかりお昼の時間を過ぎていた。4人で食事。生野菜のサラダとシーバス(日本名忘れた)のグリル。それにガーリックのパンにチーズをのせて焼いたものを頂いた。全て大当たり。魚を欲していたので、夫婦してきれいに頂いた。

その後、街のメインストリートに移動して撮影開始。最初こそ警戒されて全く撮影に繋がらなかったが、次第に協力してくれる人が増えた。観光客もいれば地元の人もいる。この日はどちらかというと、地元の人が多かった。何故なら、かおりの持つブルガリア語のボードに人が多く集まっていたから。ブルガリア語で協力を呼びかけながら撮影もする。かおり大活躍。

1時間半ほど経って、18枚撮影できた。驚異的なハイペース。ただ、ソフィアに帰ることを考えると、そろそろ帰らねば。あと2枚撮影したら帰ろうと決めて、ボードを掲げた。すると日本語が聞こえる。日本からいらした方々だった。中には本籍が東市来の方も。撮影の趣旨を説明するとご協力いただけるという。有り難くご厚意にすがった。最後に、ディアナさんと、スタンチョさんにもご協力いただき、合計27枚、30名の方々にご協力いただいた。短時間でこの撮れ高にテンション上がる。トータル712枚になった。


ソフィアへの道すがら、ブルガリアが共産圏だった頃、ユネスコと、ブルガリア共産党事務局長の娘であり政治家でもあったリュドミラ・ジフコワの発案で1979年に行われた「国際子ども会議」があったという話を伺った。この会議には130を超える国から子供たちの参加があり、交流や会議、行進などのアクテビティーがあったと。それに関連して作らえた施設が今日の最後の目的地。行ってみて驚いた。世界中から寄贈された鐘が、中心のベルタワーをぐるりと取り囲む。もちろん日本の鐘も。思いっきりお寺の鐘でひときわ大きかった。やかましく鳴らさなければ、どの鐘も鳴らしてよく、あちらこちらから時折、鐘の音が聞こえる。

公園の碑には「To the well being and happiness of children everywhere」と書かれていた。40年前の思いは、未だに果たされていないのだなあと。こうやって、いろいろな人が、平和やより良い生活を願って活動してきた。それでも、未だ成し遂げられない平和。落ちかけた赤い夕陽に照らされたベルタワーを見ながら、少し悲しくなった。

「平和な世の中」まで、あとどれぐらい時間がかかるのか。あとどれぐらいの積み重ねが必要なのか。芸術の歴史だけではなく、平和への思いの歴史も、それぞれが引き継ぎ、次の世代に渡していかねばならないと思う。

自宅まで送り届けて頂き、スタンチョさんにフェイスブックの申請をしてお礼を言って別れた。別れ際に「申請、拒否らないでくださいね。まじショックですから」と。笑ってお別れした。(無事、受理していただいた)

ブルガリアでの活動も気づけばあと3日。明日は、3年前壁画を描かせていただいた学校を訪ね、お世話になった副校長先生にご挨拶し、お話を伺い、できれば撮影をさせていただきたいと思っている。