小雨がぱらつく中、ブランデンブルグ門に赴く。これ以上激しくなるようだったら撮影をやめようと思っていたが、晴れ間がのぞく。
ツーリストインフォメーションの横で撮影を始めた。5人組のノリの良さそうな若者の集団が目の前を通る。声をかけると「地下鉄に乗らなきゃいけないんで」と言う。「地下鉄なんか沢山短い時間で来るじゃない。協力してよ」という。思えば、僕も随分押しが強くなったものだ。若者らは「協力してもいいけど、被り物をしてよければ」と。「問題ないよ」と答えると、皆一斉に、バックパックから同じ馬の被り物を取り出した。大笑い。4人が馬の被り物をかぶって撮影協力してくれた。
その後、しばらく人足が途絶えた。するとおじさまがいらっしゃったのでボードを差し向けると、英語とドイツ語の混じった難解な言葉で「ここで活動することはない。むこうの3つのスペースならいい」と。排除か・・・。「お金もとりません。もちろん寄付も」と食い下がるがダメ。
結局、東側に100mほど移動することにした。この日はドイツ語のボードはやめて英語のボード。ドイツ語のボードは見てはもらえるが、僕と目が合った瞬間に知らんぷりされることがほとんどなのだ。不思議なのだが、母国語以外に言葉を喋ることができるひとは、何故か協力してくれる場合が多い気がする。
かなり苦戦したが19枚の撮れ高。機材を畳んで、何だかずっとボードを掲げて訴えている人がいたので、気になって声をかけた。彼曰く「○○(あるユダヤ人)はテロリストと一緒だ。世の中が悪くなっているのと、ムスリム(イスラム教徒)が立場を失っているのは、ユダヤ人のせいだ!」と。いろんな声を拾うのが僕らの仕事。彼のインタビューを録ることにした。最初は小声だったが、次第にボルテージが上がってきて声が大きくなる。すると地元の人らしい人が「何そんな馬鹿なことを言っているんだ。やめろよ」と手を出してきた。手を払いのけ、拒絶するように、益々雄弁に語る彼であった。一通りお話を伺った後、あなたの考え方を否定しません。インタビューに応えてくれてありがとうとお礼をいって別れた。
この後、ベルリンの壁が最初に崩壊したところを取材する予定があったので、午後4時前に切り上げた。
たどり着いたベルリンの壁が最初に崩壊した場所。通り名が、壁が崩壊した日付になっていた。崩壊した経緯が、時系列で表示してあった。でも、全部、ドイツ語。兎に角、これでもかというほど、英語表記はない。
人通りがあれば、ここでも撮影をしようと思っていたが、誰も通らない寂しい場所だった。自宅まで約2キロ。歩こう・・・。
写真は「1989年11月9日の広場」ちなみに、壁が崩壊したのはある報道官の勘違いが発端になったそう。検問所を突破して、住民が大挙して渡ったという鉄橋を歩きながら、当時19歳だった自分を振り返った。
崩壊の様子を先輩の家のテレビで見ていた。その場に、30年後、自分がいるなんて。確かに、あの出来事はここで起こったのだ。あの頃のに僕は、トウザイレイゼン・カベホウカイはただの言葉でしかなったのだ。
ツーリストインフォメーションの横で撮影を始めた。5人組のノリの良さそうな若者の集団が目の前を通る。声をかけると「地下鉄に乗らなきゃいけないんで」と言う。「地下鉄なんか沢山短い時間で来るじゃない。協力してよ」という。思えば、僕も随分押しが強くなったものだ。若者らは「協力してもいいけど、被り物をしてよければ」と。「問題ないよ」と答えると、皆一斉に、バックパックから同じ馬の被り物を取り出した。大笑い。4人が馬の被り物をかぶって撮影協力してくれた。
その後、しばらく人足が途絶えた。するとおじさまがいらっしゃったのでボードを差し向けると、英語とドイツ語の混じった難解な言葉で「ここで活動することはない。むこうの3つのスペースならいい」と。排除か・・・。「お金もとりません。もちろん寄付も」と食い下がるがダメ。
結局、東側に100mほど移動することにした。この日はドイツ語のボードはやめて英語のボード。ドイツ語のボードは見てはもらえるが、僕と目が合った瞬間に知らんぷりされることがほとんどなのだ。不思議なのだが、母国語以外に言葉を喋ることができるひとは、何故か協力してくれる場合が多い気がする。
かなり苦戦したが19枚の撮れ高。機材を畳んで、何だかずっとボードを掲げて訴えている人がいたので、気になって声をかけた。彼曰く「○○(あるユダヤ人)はテロリストと一緒だ。世の中が悪くなっているのと、ムスリム(イスラム教徒)が立場を失っているのは、ユダヤ人のせいだ!」と。いろんな声を拾うのが僕らの仕事。彼のインタビューを録ることにした。最初は小声だったが、次第にボルテージが上がってきて声が大きくなる。すると地元の人らしい人が「何そんな馬鹿なことを言っているんだ。やめろよ」と手を出してきた。手を払いのけ、拒絶するように、益々雄弁に語る彼であった。一通りお話を伺った後、あなたの考え方を否定しません。インタビューに応えてくれてありがとうとお礼をいって別れた。
この後、ベルリンの壁が最初に崩壊したところを取材する予定があったので、午後4時前に切り上げた。
たどり着いたベルリンの壁が最初に崩壊した場所。通り名が、壁が崩壊した日付になっていた。崩壊した経緯が、時系列で表示してあった。でも、全部、ドイツ語。兎に角、これでもかというほど、英語表記はない。
人通りがあれば、ここでも撮影をしようと思っていたが、誰も通らない寂しい場所だった。自宅まで約2キロ。歩こう・・・。
写真は「1989年11月9日の広場」ちなみに、壁が崩壊したのはある報道官の勘違いが発端になったそう。検問所を突破して、住民が大挙して渡ったという鉄橋を歩きながら、当時19歳だった自分を振り返った。
崩壊の様子を先輩の家のテレビで見ていた。その場に、30年後、自分がいるなんて。確かに、あの出来事はここで起こったのだ。あの頃のに僕は、トウザイレイゼン・カベホウカイはただの言葉でしかなったのだ。