2019年6月29日土曜日

ルーブル美術館2回目

先週の金曜日に、不運にも「金曜夜閉館」で、肝心の絵画を殆どみることができなかった。ということで、今日、朝一でルーブル美術館2回目。開館30分前に到着したにもかかわらず、事前チケット購入の列には黒山の人だかり・・・。

フェルメールとレンブラントを始めとした、ヨーロッパ絵画を堪能したい。そのためにも、まずはモナリザとナポレオンの戴冠をダッシュで見て、その後、2階をゆっくり見ようと。

あと、最後に、生まれて初めて描いた石膏像「アグリッパ(実際は面でできたもの)」にお会いして、ルーブルを後にしようと。

開館と同時に地下2階から1階にダッシュ。息を切らしながらたどり着いたモナリザは遠くからしか見ることができなかった。まあ、遠くから見てもどうしようもない。ダビンチの作品は先日「岩窟の聖母子像」を始め、堪能したのでとっとと退散。で、同じ部屋にあるはずの「ナポレオンの戴冠式」がない。キュレーターさんに聞けばいいのかと思うが、ナポレオンの戴冠式って何ていうんだ?と思いながら「あー。ぎぶん、ざ、くらうん、せれもにー、おぶ、なぽれおん」と言ったらふつーに通じて「今、貸し出し中でないよ」と。まじか。じゃあ仕方がないと、2階にダッシュ。

殆どの人が1階の708~716という、所謂、有名絵画に集中するので、2階はガラガラ。有名作品がこちらにもゴロゴロしているというのに、キュレーターさんや守衛さんと私たちだけ。「おはよー」と言いながら、贅沢な時間を過ごす。宗教画や肖像画から、静物や一般の人々の生活。風景。絵の具の顔料の変化や当時の流行りも読み取れる陳列に感動しながら、ゆっくりとみて回った。

みたら泣くかもなーと思っていたフェルメールやレンブラント。ほぼ独占状態で見られた。でも、涙は出なかった。ただ、彼らに限らず、時代を超えて受け継がれていくものから伝わる「妥協なき姿勢」に、改めて身が引き締まる思いがした。

しばらくすると、集中力が落ちてきて、だいぶ、頭がぼーっとしてきたのが分かった。ところが、一瞬で目が覚めた。カミーユ・コローだ。印象派への橋渡しをしたと言われる彼の作品は、親しみやすく、且つ、自由で、均整が取れていてというか、これまでの絵画史を全て受け継いだ大天才に思えた。何気ない風景にさらっとデフォルメされた人物。ラフに見えるが洗練された筆づかい。全ての作品に圧倒された。いるんだな。こんな人がと思った。

最後に、0階に降りて、アグリッパを探す。あった。というか、居た居たという感じ。てっきり全身像だと思っていたのだが、美術室にあったサイズと全く同じだった。合掌して「大変お世話になりました。あなたとの出会いのおかげで、私は今、ここにくることができています」と。
アグリッパをかおりが撮影して、僕が熱心に見るものだから、おばちゃんが足を止めて「何か分かんないけど写真撮っとくか」みたいな感じでシャッターを切っていた。

「戴冠式」は見たかったけど、思い残すことは何もない。時代を超えて受け継がれていく作品とはどんなものなのか。それを肌身で感じることができたから。

「歴史の中で自分が何をすべきか考えろ」という問いへの答え。パリで必死に考えました。時代や環境を背景とするということはもちろんですが、やはり「描く」ということなのですね。

答え合わせの最中に、これまでの自分の愚かな生き方を悔い、気が狂いそうになりました。でも、もう大丈夫。命が尽きるまで描こうと思います。愚行や寄り道だと思っていたことは、良くも悪くも僕の糧。これからの生き方でどうにでもなるのだと思います。

30年分ため込んでいたものを消化するのに、随分苦しんだけど、パリに来てよかった。そう思いながら、ルーブル美術館を後にしました。

パリ滞在はあと実質2日。撮影は答え合わせでいっぱいいっぱいで、まだ23枚しか撮影できていません。現在、パリは「酷暑」。日中は死人が出るほど暑いです。死なない程度に、撮影も頑張ります!

写真はアグリッパにお礼を言う私。