2019年11月4日月曜日

【ネパール活動最終日】

朝一、旦那商店に行った。今日の午後から店の横で撮影の許可を取りに。快諾。午後3~4時ぐらいが下校する子どもたちが多く通るからベストだろうと。ではその時間にといっていったん家に帰る。

旦那商店と自宅は100mぐらいの距離。毎朝、途中のお宅の飼い犬が、路上で完全に気を抜いて寝転がっている。よく見ないと死んでいるのではないかと思うほど動かない。まだ、ティハールの神を自宅に招き入れるペイントをそのままにしているお宅もある。バレーボールコートには早々と若者が1人、仲間たちを待っている。歩いて登校する中学生と挨拶を交わす。仏教徒の家の上のカラフルな旗がゆっくりとはためき、オレンジの袈裟を纏った僧が朝の托鉢をしている。向こうの緑の山が、埃でかすんで見える。いつもの朝だ。

明日、ネパールを発つ。もう1か月過ぎたなんて・・・。余りにもたくさんの事があったからなのか。もうすでに、ここでの生活が日常になってしまったからか。空港でアライバルビザを手に入れるのに滅茶苦茶手こずった日が遠い昔のようだ。

朝食をとり、ウクレレの練習をした。撮影まで時間があったので、大家さんに挨拶に行こうと階段を上がった。丁度、出勤するところだった。「お仕事ですか?明日の朝7時半にここを発つのでご挨拶にあがりました」「そうですか。折角ですから、奥さまも一緒にお茶でも」と。ありがたく頂いた。

ご主人は貿易会社を営んでいる。日本にはまだ展開していないそうだが、欧米を中心にネパールの手芸品などを輸出しているという。地元のライオンズクラブの会頭を務めるなど、周辺の顔役のような存在なのだろう。

「1か月にわたる滞在を、快適に過ごせるようにお気遣いいただきありがとうございました」とお礼を言った。ここは中長期滞在の外国人が良く利用する宿泊施設で、僕らの隣の部屋には1年契約で中国ルーツの女性が住んでいる。僕らはこの施設を利用した初めての日本人だということだった。日本人のゲストにもっと利用して欲しということで「エアビーアンドビーのレビューを日本語で書いてほしい」と言われた。もちろんそうさせていただきます。

お時間はまだ大丈夫か確認して、どうしても知りたかったことを質問した。ネパール内戦の事だ。1996年に政府軍と警察、マオイストという共産党毛沢東主義派との内戦が勃発した。2006年まで続いて国内は荒れに荒れたと。サントシさんがマネジメントしている学校が内戦で破壊されたという事実を知っていたこともあり、相当大きな内戦だと思っていた。そして、様々なインフラが破壊されたという断片的な情報から、内戦からの復興がネパールの最優先事項ではないのかと思っていたのだ。

ところが、これまで聞いた話や、調べたこと、タクシーの運転手さんからの話とは随分異なる話となった。

「あなたが言うように、陸軍と警察、マオイストの間で内戦があったのは事実です。しかし、私は、ほとんどの国民にとって、この内戦はそこまで悲惨な事ではなかったと考えています。もちろん、約7300人ほどの人が亡くなったのは事実で、その親族の方々にとって悲惨な出来事であることは間違いありません。また、多くの施設が無差別に破壊されたというより、政府に関係する施設や作戦で橋が壊されたりしたことはありましたが、基本的に散発的な銃撃戦が長期間続いたという見方が正しいでしょう。内戦中も、カトマンズのこの地域は日常生活を過ごすことができていましたし、私立の学校が多いので教育も問題なく受けることができていました」

「なるほど。この地域はもちろんカトマンズの人々は内戦中も変わらず教育を受けていたのですね。だから、こんなに英語教育が普及しているのでしょうか」

「そうですね。私立の学校は攻撃の対象外でしたし、内戦の影響は少なかったでしょう。ただ、私自身は英語を学校で学んだのではなく、仕事とともに覚えていきました」

「現在、マオイストが政権を握っていますが(正確には連立政権)、彼らは共産党系の政党ですよね。共産党系政党の国家は一党独裁国家になるというイメージがあるのですがどうなのですか」

「確かに、現在、マオイストが政権を握っていますし彼らは確かに共産党です。しかし、彼らは、ロシアや中国といった一党独裁政権とは異なり、非常にリベラルな考え方を持っています。私たちには民主主義と同様に選挙権があるのです」

「それは驚きました。他の政党も左派系の政党だと聞いていたので、もしかしたら、ほかの国のように独裁国家なのかもしれないと思っていました」

「ネパールは他の共産圏とは違うのです。もちろん、内戦は良いことではありませんし、戦死者も出ています。しかし、物事にはネガティブな部分とポジティブな部分があります。内戦をポジティブに捉えることもできると思うのです。例えば、内戦は国政を大きく変えました。これは私たちにとって良いこと(民主主義や憲法の制定など)だと捉えることができます。しかし、特に戦死者を出した一族にとってはネガティブに捉えられるでしょう。今でも停戦に納得しない一部の人々は、地方でですが戦闘を続けています。ただ、大規模な戦闘ではなく、小規模な銃撃戦です。我々は、この内戦をポジティブに捉えて、よい未来を切り開く必要があります。例えばネガティブな側面に焦点を当てすぎると、リベンジにリベンジを重ねる連鎖が起こってしまいます。丁度、アフガニスタンやシリアで、悪い連鎖が続いているように」

「僕らがこの活動を続けているのは、6年前に中東で、ネガティブな連鎖を目のあたりにしたことが理由です。その連鎖を断ちたいという思いがモチベーションになっています」

「悪い連鎖が起こる前に、許すという行為が必要だと思うのです。例えば、第2次世界大戦で広島や長崎に原子爆弾が落とされた日本は、今、アメリカと仲良くやっているではないですか。そういう、良い未来のために許して前に進むという姿勢が必要だと思うのです。許すということが、悪い連鎖を断ち切る唯一の方法ではないでしょうか」

かおりが言っていることとまるかぶりだ。「起こってしまったことは仕方がない。それをどう捉えるかが大切なんだと思うんだよね」と良く口にする。

「確かに、日本とアメリカ政府の関係は良好です。しかし、被爆者や一部には、未だにアメリカを許していない人はいます。ただ戦争を憎んでアメリカ人を恨まないという雰囲気はあると思います」

時計を見ると午後2時45分になっていた。撮影の時刻も迫っていたし、ご主人の出勤もある。一緒に記念撮影をして、奥さまの弟様にタメルをご案内していただいたことを伝え、よろしくお伝えくださいといって部屋を後にした。

部屋に戻り、慌てて撮影の準備をして旦那商店に向かった。あと16枚撮影できれば、ネパールでの撮影枚数が丁度100枚になる。目標16枚以上と意気込んで出かけた。が、通りには誰もいない。こりゃあまずいなあと思っていると、店のご主人が娘さんを紹介してくださり、本日最初の撮影をさせていただいた。その後も、お客様を紹介していただいたり、ランプラサッドさんという知日家の方が道行く人への声掛けを手伝ってくださったりして、次第に枚数が増えていった。そして、4時ごろになると学校の帰宅ラッシュが始まった。子どもたちにも声をかけて撮影に協力していただいた。

なんと1時間半ほどの撮影で28枚。ネパールでの撮影枚数は112枚となった。撮影を続けたかったが、明日の出発の準備やタクシーの手配、部屋の掃除などすることが多かったので、切り上げることにした。

旦那商店のご主人や、お世話になった皆様にお礼を言った。そして、また必ず帰ってきますと約束してお別れした。サントシさんとのネパールでの平和教育活動も楽しみだし、日本の子どもたちを巻き込みたいと思っている。そして、2021年春から本格的にその活動に携わる予定だ。

同時に表現者として、ヨーロッパを舞台に平和をテーマに制作活動をしたいという思いもある。したいことが多すぎて楽しみだ。長生きしないとなあ(笑)

パッキングも終わって、掃除も終わった。あとは、寝て、明日の朝、洗濯物を取り込んで7時半のタクシーに乗り込めば、ネパールでの1か月が終わる。

ただ、自己資金の目減りが早く、帰国後の生活がちょっとだけ心配になってきている(深刻ではないのでご心配なく)。なかなか計算通りには行かないものだ。でも、どうだ。今、僕の目の前には、とても楽しそうで、誰も歩いたことがないような人生が広がっているではないか。不安よりも楽しみが多すぎて、未来が楽しみだ。

しかし「平和」というテーマの持つ質量の重さに耐えきれなくなりそうになったり、生存権などない状況で生活を送っている人々と出会ったりするなかで、精神が崩壊する直前まで追い込まれたこともあった。大きな内的クライシスモメントを3度経験した。中東を抜けるまで、精神的にも肉体的にも、本当につらい旅だった。ただ、そこを妻と共に乗り越えたことで、また、僕らは少し変わることができたと思っている。

先の見えない未来を、よりよいものにしていくために、これからも多くの人々と手を取り合って進んでいこうと思う。国境や宗教、人種を超えた人とのつながりを表現するための旅で、僕らはそのまま、国境や主教、人種を越えた人とのつながりを得た。この繋がりは表現だけでなく、より具体的な平和へのアクションへ繋がる。平和のためにできることが増えて、より多くの人、特に子どもたちを平和な世の中づくりへと導いていくことができるのではないかと考えている。

この旅での撮影枚数は1224枚となった。しかし、撮影だけではなく、様々な人との出会いや、独裁国家や内戦が続く国への滞在を含めて、出発した時よりも多くの視点に立つことができるようになっていると思う。普遍的視点がどんなものなのかは、未だ漠然としているが、少なくともこの旅は、以前の壁画の旅よりも「平和への絆」を繋いでいる実感がある。

明日、タイを経由して韓国に行く。滞在は短いが、友人たちと本音で語り、知見を深め、平和を考えるうえで大切な普遍的視点についてさらに深く考察したいと思っている。

韓国を最後の目的地に選んで本当によかったと思う。欧米中東で見たことや学んだことで、間違いなく以前の僕とは違った視点で物事を捉え、それを率直に表現できるようになっているから。

全体主義。ポピュリズム。ナショナリズム。どんなものにも飼いならされない矜持と共に、韓国を訪れ、帰国する所存です。

2019年11月3日日曜日

【ネパールの未来】

約1か月、ネパール、カトマンズの西部に滞在した。周辺は再開発地区にあたり、それなりに金銭的に余裕がある人たちが多い。周囲には3階建ての建物が立ち並び、有償の私立学校に通う子供が多い地区だ。日本に留学している子どももいる。

ところが、ネパールにはカーストが未だに残っており、1日1ドル以下で生活する貧困層が相当数存在するという。そこに、1996年から2006年にかけて、ネパール内戦が勃発した。加えて、ネパール王族の殺害事件が起こり、国の仕組みそのものが大きく変わってしまった。

内戦に関しては、喋りたがらない人が多い(気がしている。聞いても聞いてもお茶を濁される)。内戦で亡くなった人が多いのはもちろん、国民が、政府軍と「マオイスト」と呼ばれるネパール共産党毛沢東主義派に分かれて戦った。友達だったのに内戦で仲を引き裂かれ、お互いに銃を向け合うことになった人もいたという。悲惨の一言だ。(この話はカナダで聞いた)

また、この時期に経済的に困窮した国民は、日本やオーストラリア、韓国と言った国々に出稼ぎに出たのだという。丁度、僕と同じぐらいの年齢の人たちにこういう人たちが多いようだ。ちなみに、旦那商店のご主人は、オーストラリアで10年、韓国で2年過ごしたと言っていた。関西弁訛りの日本語を喋る方も、18年間、東海地方を中心に出稼ぎに出ていたと。

内戦に直接参加した人も、内戦を避けて海外へ出た人も、それぞれ何らかのわだかまりを心に抱きながら生活しているように見える。沖縄で聞いた「基地に反対、賛成、どちらでもないという3つの立場があるが、それを日常生活で表に出すことはない。それが日常生活を上手くおくるための方法なのだ」という話と被った。直接関係しなかった人にも長期にわたり大きな影響を及ぼす。それが戦争だ。

この内戦で学校やインフラ、様々なものが破壊された。街にはストリートチルドレンがあふれ、13年たった今でもNGO等がその救済活動を続けている。

そして、この内戦が原因で地方の開発が遅れ「地域間格差」が顕著になった。そこに、差別的身分制度が加わって、さらに大きな格差が生じている。格差を補うために、子どもたちは教育の場から遠ざけられ、労働に従事せねばならなくなった。そして、学校自体も内戦で破壊された。正直、もう滅茶苦茶だったらしい。

「地域格差」と「差別的身分制度」加えて「内戦の傷跡」これらを解決しなければネパールの未来はないと考える。

それを「無償教育」を普及させ「平和のための人(Peace for People)」を育てることで、解決しようとしている人がいる。それが、サントシさんなのだ。

彼が「教育」の重要性に気づき、具体的な活動を始めたのは、内戦で荒れ果てた状況をどうにかしなければならないという思いからだったという。実際にサントシさんの作った学校は、内戦で破壊されてしまった学校を復興させたものだ。更地にして、木造の簡単な建物から始まり、資金を調達し、コンクリートで校舎を作っていった。

周辺の子どもたちはそれまで相当な時間をかけて学校に行っていたそうである。そして、入学はしたものの貧困のために学ぶことを諦めて卒業まで至らないケースも多かったという。これが、サントシさんの様な志を持った人や、海外のNGO、開発援助によって徐々に改善されている。

繰り返すが、「地域格差」「差別的身分制度」「内戦の傷跡」これら3つの問題を解決するには、相当な労力と時間が必要だ。

だが、どうしてだろう。貧困や格差という問題を抱えながらも、ネパールの子どもたちはとても逞しく見える。街角で堂々と英語を駆使してコミュニケーションをとる姿や、言葉は通じなくとも何とか自分の思っていることを伝えようとする。分からないことを怖がるのではなくて、ぐいぐい来る子が多い。そんな様子を見ていると、子どもらは環境の改善のあるなしに関わらず、その逞しさで未来を切り開いていきそうな気がするのである。

道端で4人の男の子たちに会った。英語を喋ることができたので、ある程度恵まれた環境にいる子どもたちだろうが、物おじしない姿勢と、底知れぬ好奇心を感じた。30分ぐらい一緒にいただろうか。ずっと英語で話をした。都市部の私立学校ですら、日本の公教育の施設設備には及ばないところもあるだろう。そして、過去、現在と、まともに学ぶことができない環境が続いたこの国で、何故、こんなにも英語が通じるのか。稼ぎに直結するという理由もあろう。だが、それだけではない気がする。この国の人々の持つ本来の逞しさが、そうさせているような気がしてならない。

そして、皆、良くしゃべる。自分の事。宗教の事。国のこと。政治に対する不満。元々、気さくでおしゃべりな国民性なのかもしれない。

ネパール。住みたいと思うほど気に入った。そして平和を希求する「表現者」として「教育者」として、この国の未来を見てみたいと思うようになっている。

助けたいなどとは全く思わない。直接関わって、この国の未来を見てみたいのだ。


2019年10月30日水曜日

イスラム圏のLGBT

イスラム圏を抜けたら、この事を公表しようと思っていた。現在、カトマンズである。読んでいたければ事情は分かっていただけると思うが、国名も個人情報も全て伏せなければならない。それを承知で読んでいただければありがたい。

中東の旅で友人ができた。彼はゲイだ。出会って2回目に気が付いた。半裸で男性の友人と仲睦まじく抱き合う様子を目の前で見たから。日本にもゲイの友人はいるんだけれども、僕の目をはばからず、ここまで赤裸々に、お互いを愛おしそうにするものだから、ちょっとどぎまぎしてしまった。ゲイに限らず、中東の若い人は自宅に帰ると人が変わったように、人目をはばからずイチャイチャする。兎に角、中東のプライベート空間に入ると、目のやり場に困るこがしばしば。外では手もつながないのになあ。

彼の家にはお友達がたくさん訪ねてくる。彼らもゲイで、恋人だったり同じビジネスをしていたりするみたい。イスラム教で同性愛は禁じられているのは知っている。確かイスラム法では死罪じゃなかっただろうか。いや、違ったかな?


そんな中で、リビングで恋人と仲良く過ごすお二人さんを見て、お邪魔しちゃ悪いなと思い、ちょっと気を使っていた。上半身裸で抱き合っていたり、とても仲かよさそうな様子を見ると「自由にくつろいでよ」と言われても「僕ら、ちょっとお邪魔虫だよな」と気を使ってしまう。

ある日、どうしても尋ねたいことがあって彼を訪ねた。彼は家に1人だった。「入っていいですか?」「もちろん。どうぞどうぞ。何でそんなに遠慮するのさ」と。すると彼は「もしかして怒ってる?」と。「いや、怒っていないけどどうして?」「自由に遊びに来ていいし、くつろいでといっているのに、とても家に入るのを遠慮いるように見える。そして、用事が終わるとすぐ帰る。もしかしたら、友人たちが大勢尋ねてくるから、怒っているのかと思って」「ちがいますよ。これは僕らの、あなたのプライベートへの配慮です」「凄くシャイなの?」「妻はシャイだけど、僕はシャイじゃないです。日本ではプライベートをお互いに尊重しようという習慣があるの」「怒ってないの?」「絶対に怒っていないから。僕らの習慣だと理解してほしい」「分かった。あと、僕はゲイだから」「そのことは知ってるよ。日本の友達にもゲイがいる。特別なことじゃない」

気が付いていたけど、ここで初めて彼は自らの口から「ゲイ」であるということを口にした。僕が聞きたかったのは「そこ」だったのだ。多様な価値観の中に「LGBT」が含まれていたから。
「そのことについて聞きたいことがあるんだ。そして良かったら、それをインタビューさせてほしい」「わかった」「まず、あなたはイスラム教徒?」「いや本当は違うよ」「わかった。ここはイスラム圏だよね」「そうだね。ここには沢山のモスクがあるしね。だから、どこ行っても、アザーンが流れているでしょ」「そうだねえ」で、本題に切り込んだ。

「率直に。イスラム圏でゲイは普通に存在できる権利があるの?」「イスラムではゲイは罰せられる存在だよ。自分がゲイだと分かった時に、僕はムスリムではいられないと思った」
彼がムスリムでない理由は、自身がゲイだと気づいたとこだとが原因だと。

「ここでは法律の下でLGBTは守られていないの?」「仮に法律があっても、イスラムの教えや社会は僕らの存在を許してくれない」「そうか。それは日本でも同じかもしれない。表現の自由は認められているけど、それをカミングアウトすると、人からどんな目で見られるかわからない。僕の友人はカミングアウトはしていないよ」「世界には政府がLGBTの人々の権利を認めて守ってくれる国があるよね。しかし、ここはそうではない」「そうなんだ」「カミングアウトすると、いったいどうなるかわからない。だから、ゲイのコミュニティーの仲間と妹にしか伝えていないよ」

「そんな状況で、僕らによくゲイであることをカミングウアウトしたね」「君らは出会った時に、平和のために、多様な価値観を認めることが必要だと言った。だから、君らなら大丈夫だと思ったんだ」「そう。そこなんだ。その多様な価値観のなかのひとつにLGBTも含まれるんだ」「そうなんだね。安心したよ」「僕もそれを聞いて安心したよ」彼の顔が少し緩んだ。彼は僕らのことを信用しながらも、緊張していたんだ。それはそうだろう。話は続く。

「君がこんな繊細な話に時間を割いてくれることに感謝するよ」「いや、いいんだ」「君の話は、必ず世界の平和のために役に立つと思う。全ての人には、表現や宗教選択の自由を持つ権利がある。そして普通の生活をおくる権利も」「だから、政府がLGBTを保護してくれている国を本当にうらやましいと思うんだ」「将来、そんな世の中がここにも来るように祈っている。そして、君の話を役立てることを約束するよ」

話は日常生活に及んでいく。「いつも外の顔と内の顔を分けなければならない。自分に毎日嘘をつかなければならない。それが苦しいよ」「わかります。家で振る舞えるように外でも振る舞えたら幸せでしょうね」「僕はもう結構いい歳だから、みんな、どうして結婚しないのかとか、恋人はいないのかとか、子どもは欲しくないのかと聞く。その度に嘘をつかねばならない。それがとても辛いんだ」

「子どものころ、自分がゲイである事に気が付いたんだ。神様はゲイの存在を罰するということを知った。その時、神様は僕をどうして存在させたんだと思った。罰するためだけに僕を存在させているのかと考えた。けど、誰にもそのことを話すことができないんだ。皆、イスラム教徒だし、僕の存在は悪いことだと思えたから」彼はため息をついた。


「僕はブッディストだから神の存在について深く考えない。ただ神様は、僕らに道徳的で寛容な事を望むと思う。これは僕の考えだけど、神に問題があるのではなくて、宗教に問題があると思う。宗教、特にイスラム教は、厳しい生活環境を皆で助け合って生きる知恵も含まれている。ただ、それの解釈が間違っていると思うんだ。だから、神は君の事を罰することはないと思う」

「仏教ではLGBTはどの様に扱われているの?」「原始仏教はLGBTについて触れてないと思う。ブッダは全ては移り変わるというし、この世の全ては・・・(空という観念を説明できなかった)なんていえばいんだろう・・・意味がないというか、日本語だったら上手く説明できるんだけど。兎に角、LGBTだろうが、他の何かだろうが、そこに特別な意味はないと気づいた人がブッダなんだ」「そうか。仏教はいいね」「仏教はいいかもしれないけど、日本には宗教に関心がある人は少ない。宗教よりも社会性が大切で、他人が自分の事をどう思うかが大切なんだ。だから、日本でもLGBTの人は自分を表現することが難しいよ。でも、イスラム圏ほどではないかもしれない」

「そうなのか。日本はそうなんだね。僕は宗教を信じられなくて哲学に頼っているよ。あそこの本棚にある哲学の本なんだけど分かるかい?」「いや、見たことはない。僕は哲学者では、カントやボルテール、あとショウペンハウアーが好きだな。カントやボルテールは、多くの価値観を認めることが大切だと言っているよ」「そういう世界では嘘をつかなくてもいいんだよね」「いつか、宗教や人種、国境やジェンダー、世界が抱える問題を越えて、皆が自分に嘘をつかずに日常生活を送ることができる日が来ればいいと思います。そして、そんな世の中が来るために、僕らはあなたの意見を無駄にしません」

気が付けば1時間以上話を話をしていた。話が長くなったことを詫びて自宅に帰った。

宗教、国境、人種の問題だけではない。人を隔てるものは多岐にわたる。それをどうやって受容し、皆が自分に嘘をつくことなく生きていける世の中。その上で、生存権が脅かされない世の中作りも大切なのだと思った夜だった。

2019年10月27日日曜日

Introduction "Peace for People" in Nepal



ネパールのサントシさん。「平和の人」を育て、平和を拡散するために力を尽くす人です。皆さんに広く知っていただきたく、また、この活動を応援していただきたく再生リストを作った次第です。
ご覧いただき、ご支援いただけると幸いです。ご質問はフェイスブックメッセンジャーや動画のコメント欄に頂けると幸いです。

※現在、英語とネパール語でしかご覧いただけませんが、日本語訳も追加予定です。

2019年10月24日木曜日

「平和の人」を育てる

サントシさんの作った学校を訪問した。カトマンズの隣町、ダハリン。30数キロ離れただけで、谷の両脇に棚田が広がる農村地帯が広がる。美しい。車を降りて、未舗装の坂道を上る。途中、子どもたちが挨拶してくれる。美しい斜面に切り開かれた平地に校舎があった。小学校である。クラスは5つ。

子どもたちは当番で掃除が決まっているらしく、掃除が始まった。手伝った。労作教育。いいことだ。始業の鐘が鳴ると、皆一斉に教室に戻り歌を歌い始めた。その後、1時間目の授業が始まった。

5クラスに対して4人しか教諭を確保できていないという。そして、そのうちの一人は賃金が払えずに、現在、出勤していないと。昨日、フランスから、アートとダンスを教えるボランティアである「ココさん」がいらした。合わせて4人。ということは、必ず、ひとクラス自習になる。1年生は3歳児も交じっており、目を離せない。ということは、当然、2年生以上にそのしわ寄せがくる。

色鉛筆や教材が足りなくて、数人で共有しながらの授業。しかも、異なる文化や歴史的背景を持つ人との触れ合いは、彼らの成長に何らかの影響を及ぼすだろう。

ただ、ほかの先生は、教科書を写させたり、子どもらに九九の暗唱をさせたりしていたが、正直、教育への熱意の様なものは感じられなかった。それでも、これまで何時間もかけて遠くの小学校へ行っていた彼らにとっては大切な学びの場であることは間違いない。

折り紙ワークショップから日本文化の紹介や日本の歌の披露をした後、写真撮影に協力いただいた。帰り際に、サントシさんから、私の視点からの教育改善のためのフィードバックを求められた。翌日、僕の視点で書いて送った。

日本で私が実践してきた教育過程づくり、評価、改善の3点の必要性。そして、彼の掲げる「PEACE FOR PEOPLE」をどの様に教育を通じて実践していくのかを英文で起こした。日本ですら教育目標から教育課程を考えるのは大変なのに、英語だと尚更だ。

ただ、大いに単語の勉強になる。教育関係の専門用語をいくつか覚えた。で、送信した。彼への恩返しになればいいと思う。それと同時に、日本でも言えることだが、教育の質というのは校長と教員の質に大きく影響されるということ。

先生方の質や志の低さを感じたとも書いた。(教員時代、日本でも同様に感じた)自ら学ぼうとする意識や、効率的な教指導方法を追求していない。サントシさんの熱量に対して、スタッフがついてきていない状態が見えた気がした。もちろん、運営資金のショートや賃金に見合う仕事なのかだとか、いろいろ解決すべき問題はあると思うのだが。

ふと。ネパールの今後を考えた時、教員養成所を設立するのはどうだろうと。教育は平和な世界を創造する活動の根幹のひとつであるのは間違いない。この地での教員免許システムがどのようになっているのか分からないが、教員の質を上げることが最も効率がいいのではないかと。もちろん、これは現在はただの妄想だが、地方の個人設立の学校が、運営資金で苦しむ中、教師を派遣しながら、教師の給与をこちらで保証するシステムが作れないかと。

様々なインフラや人材が成長中のこの国で、できることは多いのではないだろうか。そして、様々な国々がトライアンドエラーの中で積み重ねてきたものを、上手くネパールの未来に生かしていけないだろうかと。

「平和の人」を育てる。その為に何が必要なのか。教育課程を考えながら心が躍った。久しぶりに教師の血が騒いだ。

2019年10月23日水曜日

Same heart in Katmandu

朝3時まで原稿の手直しをして、7時前に起きようと横になった。ところが、ウトウトしては目が覚める。なんだろう、この胸の高鳴りは。

起床予定の7時まであと何分だろうと携帯を見ると6時58分。あと2分横になって、身支度と朝ご飯をすませよう。

心配事は、サントシさんが、個々の家に「住所がない」ネパールの家にたどり着けるかということだけだ。事前にGPSの位置情報(北緯東経)を送って、自宅の写真と目印となるバレーボールコートの写真を送っておいた。

「準備できましたよ~」とメッセージを送った。すると電話がかかってきた「近くまで来てると思うんだけど、写真に写っている表札が読めないんだ。どのお宅か名前を教えてくれないか?」と。はいはいちょっとまってねと、家主さんのお名前を伝えた。で「表に出ときます」といって電話を切った。

外に出て待つこと数分。サントシさんと、同僚のプナムさんがスクーターで現れた。初めて会ったような気がしない。久しぶりという感じでもない。

フェイスブックでお互いの日常を見ている人に会うと、初めて会った時に、ちょっと不思議な感情を抱く。最も近い気持ちを探ったが「久しぶりじゃあないけど、久しぶりな感じがしますね」なのだろうか。

がっしりハグして、お互いに「マジで会えてうれしいです」「ほんとうに夢のようですね」と。早速、フラットに案内した。

彼との縁は、僕が韓国陸軍施設に平和の壁画を描いた記事を、ご自身のフェイスブックでシェアしてくださっていたことから始まった。

彼も「破壊よりも創造」というテーマで、地域の人や、子どもたちを巻き込んでアートを通じた平和活動をしていることを知った。それから「いつか一緒に活動できるといいですね」とやり取りを続けていた。

そして4年後、それは現実となった。

「本当に本当にお会いできてうれしいです」「それは私も同じです」「昨日、チュニジアからお帰りになったんですよね。時差ボケは大丈夫ですか」「はい。全く問題ありません」

若さと、溢れんばかりのエネルギーを感じた。彼は現在、アートを通じた活動だけではなく、学校創設や教育の普及に力を入れており、その活動範囲を広げている。内戦や王室の消滅のせいもあるのだろうか、カトマンズはもちろん、ネパール国内で公共インフラはもちろん、教育や医療の整備が進んでいる途中だ。だから、首都のカトマンズでも停電するし、水もとまる。(でも、ゴミの分別は厳しい)

彼はカトマンズから西のダーディンという都市周辺に教育施設を作っているという。首都のカトマンズではスクールバスが下校時になると何台も走っているが、地方になるとそうもいかないらしい。現在17校の学校の創設がはじまっており、彼と彼の仲間たちはそのうちの7校の創設にかかわっていると言っていた。

「医者になれだとか、エンジニアになれだとか親の希望はあるでしょう。しかし、私はそれは生きるための手段であると考えます。本当に育てたいのは平和を求める気持ち。お互いを尊重し良い未来を創る力です」

ネパールの学制がどうなっているのか分からないが「平和」と「教育」を結びつけるために、カリキュラムまで考えていると仰った。机上の勉強だけでなはく、いかに広い視野を持つ人材を育てるためには何が必要なのか。

その一助になることができれば光栄ですと言った。

ネパールの今をぼんやり眺めていると、僕が幼少期を過ごした昭和40年代を思い出す、道には牛糞が落ちて、舗装道路も少なく。車が通るたびに砂塵が舞い上がる。雨の日は靴が泥だらけになって叱られたっけ。学校の教室内で休み時間に煙草をくゆらす先生を見て、煙草ってどんな味がするんだろうと思っていた。低学年の頃は、少数だったけど、裸足で学校に来る子もいた。全てがおおらかだった少年時代を思い出す。

見た目は、40年前の日本と同じような環境下で貧しい生活を強いられているが、昔とは異なり、インターネットや人のネットワークから入る情報量が圧倒的に違う。サントシさんらの取り組みは、平和な世の中を創造するリーダを生み出す可能性があると思う。

未来を自分たちで作っていくという気概を強く感じたから。そう。熱量は人を動かし、時代を動かしていく。

2019年10月15日火曜日

【トルコ滞在を通して感じた、欧州と中東諸国の関係性について】

トルコを訪問したことで欧米諸国や中東諸国の関係が、一層明確に見えたと思います。もちろん、我々の知る範囲ですが。そして旅を通して日本を客観的に見ることができたような気がしています。そして、このタイミングでのトルコ軍のシリア北部への侵攻。まだ、旅の途中ですが、今、感じていることや考えてきたことを文章化したいと思います。

1.トルコのEU加盟と宗教問題
2.第1次世界大戦後処理とクルド人問題
3.僕らにできることとは
4.夫婦の見解

1.トルコのEU加盟と宗教問題

ネパール空港に到着して、トルコリラを両替してくれるようにお願いしたが断られた。「ここではできないから、あっちの両替所でしてくれ」と。ところが、その両替所は存在しなかった。不安定な通貨は両替を拒否されることが多い。

トルコは現在、金融危機を迎えている。数年前は1トルコリラは40円ぐらいだったらしいのだが、着いてみてみてびっくり。18円ぐらいまで落ち込んでいた。でも、物価が上がっているので円高の恩恵は全く感じなかった。政情不安定だと、金融も不安定になり、物価が相対的に上がるらしい。特に輸入品の値上がりはえげつない。僕らの旅が早く終わった最大の原因はこの「政情が不安定な国での物価高」だ。旅人の僕らがそうなのだから、地元民はもっと苦しかろう。

経済基盤の弱さに危機感を抱いているトルコ国民は自国通貨を信用していない。そこに加えてトランプ大統領の経済制裁。んが、イスタンブールには、どでかいトランプタワーがそびえ立っている。しかも堂々と「TRUMP TOWER」と銘打っている。この世のはよくわからん・・・。

何故、こんなことになっているのか簡単に言うと、2016年の反エルドランクーデターが起こった時に、アメリカ人牧師がそれを扇動していたという理由で拘束された。これに怒りまくったトランプが、経済制裁を加えた。これがトルコリラ暴落の始まり。で、エルドランの経済政策を信用しなくなったトルコ国民がユーロやドルを買い始めた。(地元民はエルドランは経済政策には悲しいほど才能がないと言っていた)
で、NATOに加盟しているにもかかわらず、ロシアや中国からミサイルを買ったり戦闘機を買ったり、シリア内戦でクルド人(後で詳しく触れます)部隊を後方支援したアメリカを激しく非難したり、欧米諸国の顔色を窺うイスラム諸国の中にあって、堂々とパレスチナ問題でイスラエルを非難したりするもんだから、益々、圧力がかかって大変なことになりそうな雰囲気だった。

「この国はいったいどこに向かおうとしているのだろう?」というのが、僕のトルコに対する第1印象だった。

そんなところに、今回のシリア北部への軍事侵攻である・・・あああ・・・。

丁度、トルコを離れて「言論と表現の自由」を得たこともあり、記憶の新しいうちに、欧州、中東と旅して見聞きしたことを「トルコ」という国を通してまとめておこうと思う。

バルカン半島を旅しているときに、オスマントルコの話題は、沢山出てきた。ブルガリアは露土戦争で独立を果たし、第1次世界大戦での敗戦でオスマントルコはなくなった。150~100年前の話だ。オスマントルコの治世を過去の話だと片づけられる人もいれば、未だにトルコへの潜在的な恐怖心や嫌悪を抱いている人もいる。これはトルコに限らず、2回の大戦でヨーロッパを滅茶苦茶にしたドイツにたいして、未だに警戒心を抱く人たちがいるのと同じなのかもしれない。日本も恐らくそうなんじゃないか。今でこそ国際社会の「優等生」だが、戦争の傷跡というのは世紀を超えて残る。そういう点で丁寧な戦後処理や周辺諸国への配慮は必要だと思う。もちろん、これは戦勝国、戦敗国関わらずだ。そういう思いを、欧州・中東の旅で強くした。

そんな中、トルコはEUへの加盟を熱望していた。EUはトルコに死刑制度を始めとした司法制度の改革や、人権問題(クルド人問題)に対しての改善を求めた。それに対して、トルコはトルコなりに努力したのだろう。それでもEUはトルコの加盟を認めない。(僕から言わせれば、EUに財政破たんを隠していたギリシャのほうがもっとたちが悪い気もする)

地元の人や、地元に住む日本人に聞くと「結局はEUにトルコはイスラムだから入れてもらえない」という話になった。欧州でイスラムに対しての印象や考え方を詳しく取材していなかったので(この旅ですごく悔やまれるところ)、ヨーロッパ(キリスト教圏)のイスラムに対する本音みたいなものがないか探してみた。すると、こんな文章が出てきた。

ベネディクト16世が教皇になる前(2004年8月11日)のインタビューだ。彼はこのとき枢機卿の一人である。(章末に原文を掲載しています)

最後のパラグラフが僕にとって難解で、ちょっと何言っているのか分からないところがあるのですが、それ以外は簡単に言うと「トルコはEUに入るよりも、アラブ諸国と同盟を組んだほうがいいんじゃない?だって、トルコとヨーロッパって違うじゃん。そもそも、ヨーロッパと中東を一緒にしようというのが間違いでしょ」
最後のパラグラフは「EUはキリスト教のことを、キリスト教の負の歴史を恐れて、EU法案に盛り込むことを避けちゃだめだよ。もちろん議論は必要だけど。」と意訳できるのではないでしょうか。(意見求む)
ちなみに、キリスト教の負の歴史とは十字軍や、ユダヤ教徒への迫害などなど枚挙にいとまがない。

これのインタビューは、僕からすると「政教分離の原則」からは外れるし、EU加盟を目指していたトルコの人々は大いに失望させられたと思う。そして、枢機卿がこのような考えを持っているという事は、少なからず欧州連盟に影響を与えたはず。

また、彼は教皇になった2006年にもレーゲンスブルグ大学での講義の中で、イスラム教に対する発言をしていて、
「ムハンマド(イスラム教における最後の預言者)が新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです」さらに、「理性を備えた魂を説得するために、腕力も、いかなる武器も、死をもって人を脅すその他の手段も必要ではありません」と、これは長い講義の抜粋だが、前後を読むと「イスラム教は剣(暴力)によって、その勢力を拡大していった」ということを批判する内容になっている。(出典:教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演 2006/09/12 教皇文書 ベネディクト十六世 諸文書)ちなみにコーラン第2章には「宗教にむり強いがあってはならない」とある。これも宗教が解釈され、権力によって歪められ利用されたふしが見える

これは、トルコの人々の大きな反感を買い、その収束のために教皇はイスタンブールのブルーモスクで謝罪したという。そして、イスラム教徒の対話を促進したという。

でも、何となく、この辺が本音なのかなあとも思う。人口が減少するEUの中に今後も人口が増え続けるだろうイスラム圏のトルコを加入させることで、ヨーロッパの独自性が保たれなくなるだろうというのは容易に想像がつく。「ヨーロッパの独自性」とは何だろうか。それはずばり「キリスト教圏」だということである。その権威であるバチカンの影響力の低下は、彼らにとっては大問題だと思われる。

そんな思惑が見え隠れする中、トルコはエルドアン首相の元、EU加盟を目指していたのだが、彼が大統領に就任して以降、反対勢力を弾圧し、法を自分のものとし、独裁色を強めている。EUの態度にブチ切れてしまったのか、首相在任中にEUだけに依存するよりも、もっと多角的に自国の情勢を客観視して、立ち回り方を変えたのかもしれない。

滞在中、実際にツイッターやSNSは規制され、ウィキペディアや主要なニュースは閲覧できないようになっていた。また、先日の選挙では、大票田イスタンブールを落としてしまった。ところが、3か月後にもう一度選挙を行うという法案を成立させて、その選挙で圧勝して、そのまま大統領の座に居座り続けているという。その3か月の間はロビー活動やプロパガンダが相当激しかったそうである。(地元民談)

もしかしたら、首相として、EUとの確執や、国内世論、周辺国とのバランスをとりながら舵を取ってきたのが、大統領就任という大きな権力を一手に握った後、トルコの持つ地勢的意義や、これまでの難民問題でのEUへの貢献、欧米諸国の援助がなくてもロシアや中国とも手を結べるということをカードとして、イスラム圏の盟主としての復権を目指しているのかもしれない。

その根拠として、イランの核保有を支持し、2009年のダボス会議でイスラエルのガザ侵攻を抗議している最中、時間切れだと演説を制止され激怒して帰国したエルドアンは国民からはもちろん、パレスチナを含めたアラブ諸国から「英雄」「現代のスルタン(イスラムの君主)」と称賛されたという(ウィキペディアより引用)

彼は全方位を見ながら、地勢的な優位性を生かしながら、トルコの復権を夢見ているのかもしれない。

※ベネディクト枢機卿のインタビュー全文
Cardinal Joseph Ratzinger said in an interview released on Wednesday that Turkey should seek to join Islamic nations rather attempt to join the European Union. The prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith told France's Le Figaro magazine that Turkey had always been "in permanent contrast to Europe," and that it should look to its roots for closer associations.
"In the course of history, Turkey has always represented a different continent, in permanent contrast to Europe," Ratzinger told the magazine, noting that the history of Ottoman Empire, which once invaded Europe as far as Vienna. "Making the two continents identical would be a mistake," he said. "It would mean a loss of richness, the disappearance of the cultural to the benefit of economics." The born cardinal said Turkey "could try to set up a cultural continent with neighboring Arab countries and become the leading figure of a culture with its own identity."
He added that he could envision such an Islamic entity forming certain ties with the European Union, working together to fight extremism, for example.
The cardinal also said that the European Union should not ignore its Christian heritage. A debate has been raging in Europe over whether to include a specific mention of the debt owed to Christianity in the EU's proposed constitution. "We should continue the debate on this question because I fear that behind this opposition (to mentioning Christianity in the European constitution) hides a hatred Europe has against itself and its great history," he said.



2.第1次世界大戦後処理とクルド人問題

僕が初めて「クルド人」という名称を聞いたのは2014年3月のことだった。シリア内戦でISがクルド人集落を全滅させたという話を、教え子でもあり友人でもある津村氏から聞いたのだ。

クルド人とは「トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団」である。(ウィキペディアより)
オスマントルコ時代は上記地域がひとつの国としてまとまっていたので、オスマン帝国内でクルド人は多数派でいられた。ところが、第1次世界大戦後、オスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスとロシアによって引かれた「恣意的」な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された。3国の思うがままに、この地域は分けられてしまったのである。

第1次終戦直後のセブール条約には「クルディスタンというクルド人国家の設立」が条文にあったのだ。ところが、条約に反発したトルコ国民軍が現在のトルコ国境を取り戻す形で、新たに結ばれたのがローザンヌ条約である。この結果、セブール条約は批准されなかった。

セブール条約では、現地の民族や宗派で、それぞれ国を作りますよということになっていた。ところが、それに反発したトルコが国境を押し戻して、結局、国際社会がそれを認めてしまった(ローザンヌ条約)。これで、「それぞれの民族や宗派で国を作る」という話が反故になてしまった。トルコが思う「トルコ国境」にはクルド人やアルメニア人が入り組んでいる形で存在していた。そもそも、現地の民族や宗派で国を作るという事は難しかったとも言えるが、問題はその後である。

旧オスマントルコ領は、戦勝国の思惑で線引きされた。(サイクス・ピコ協定)民族や宗派を無視した形で引かれた国境線によって分断されたクルド人は、それぞれの国で少数派となり民族としての主張ができなくなった。さらに、アルメニア人は国外に出ていく羽目になってしまった。

トルコ国内で少数派になったクルド人は民族的主張を抑圧される。そんな中、1984年から2013年まで、クルド人の文化的・政治的権利と民族自決権を求めてトルコに対する武装闘争を行った。ちなみに、クルド人はトルコ全人口の10~25%を占めると言われている(幅があるのは混血が進んでいるため)
結局、武力闘争を行ったクルド人勢力がトルコから出ていくことで、この紛争には決着がついたのだが、問題はその他のクルド人である。武力闘争を行っていた一派が出て行ったことで、自分たちへの抑圧がまた強まるのではないかと。また、潜在的にトルコはクルド人の独立や民族自決を恐れている。よって、トルコ国境沿いとシリア北部のクルド人勢力を敵視している。

そこで、今回のシリア北部への武力侵攻である。第1章でも述べたが、トルコは、地勢的意義や、これまでの難民問題でのEUへの貢献、アラブ諸国での評価の上昇、欧米諸国の援助がなくてもロシアや中国とも手を結べるということをカードにして、全方位から何も言われない状況を作り、クルド人制圧へと本格的に乗り出したのではないかと思われるのである。

特に僕が思うのが、サイクスピコ協定である。ISもこの協定によってひかれた国境を認めないということを戦う事のひとつの理由としていたし、間違いなく、100年前に恣意的に作られた国境線が、中東の火種になっていることは明らかである。戦勝国、戦敗国関係なく、民族や宗派はもちろん、その地域に最大限配慮した戦後処理をすべきである。

果たして、イギリス、フランス、ロシアといった国々は、この歴史に対してしっかりと向き合っているのだろうか。僕には少なくともそうは思えなかった。
11日に国連安保理からのトルコに対する軍事作戦の停止声明は、常任理事国ロシアの一言で反故になった。戦勝国と戦敗国というカテゴライズが存在する国連は、もはや大国の思惑から逃れられない。

何のための国連なのか。国際連盟も国際連合もカントの「世界平和のために」に書かれた理念を大いに参考にしたという。今一度、カントの言う「平和のための連合創設」から理念を学びなおし「恒久平和のための連合創設」に向けて議論を深め、実現を目指していくべきではないだろうか。



3.僕らにできることとは
1月後に韓国に行く。日韓関係は最悪の状況。そんな中での訪問だ。これまで2度訪問しているが、今回は違った旅になるだろう。

僕は日本の戦後処理について「相手が納得するまで過去と向き合う」というスタンスを支持している。これは、何も戦後賠償をずっと続けるだとか、事あるごとに「ごめんなさい」と謝り続けることではないと思っている。誰の言葉か「敵を憎まず戦争を憎む」というを聞いたことがある。日本が「戦時下での女性や労働者、弱者の人権にしっかりと向き合い、二度と侵略により、民族や宗派の尊厳を冒してはならない」という姿勢をとり続けるということだ。これにはもちろん、日本の戦後処理はもちろん、歴史に正面から向き合う必要がある。嫌韓の風潮が広がる中、この意見は受け入れてもらいにくいかもしれない。

アウシュビッツで、真剣に自分たちの過去と正面から向き合うドイツ人学生を見た。バスで大勢でやってくる。ドイツではこの負の歴史に向き合うことを教育の中で義務としているというのである。自虐史観という向きもある。だが、僕の目にはこれが「未来志向」だと思えたのである。負の歴史を直視し、広義の戦時下での表現自由の抑圧や、宗教弾圧、人権蹂躙(ホロコースト)を繰り返してはならない」という国としての決意を見た気がした。
そして、そのことが周辺国への、2度もヨーロッパを戦火に巻き込んだドイツへの「安心感」の醸成につながっている。

このあり方を見てから、日本の韓国とのやり取りは「戦後の人権問題をさっさと処理したい」と目に映るようになった。そして、そんな日本政府の態度や、昨今の問題を通じて、日本に対する潜在的な恐怖を感じている韓国人は存在すると思う。(そして、それを確かめたいとも思っている)慰安婦問題や徴用工問題も、それぞれを個々のトピックとして扱うのではなく「広義の人権問題」として「2度と繰り返してはならない」という姿勢を世界に「強く発信し続けること」が、日本へのさらなるリスペクトを呼ぶ気がしてならない。例えば、慰安婦問題を女性人権問題として捉えると、その問題の範囲は韓国人慰安婦だけでなく、日本人から台湾人、中国人、フィリピン人・・・と拡大していく。アジア女性基金の存在も「賠償が終わったから終了」というのではなくて、戦時下における弱者の人権を守るためにその役割を果たし続けようという趣旨のものであれば、もっとよかったのになあと思う。ちなみにこちらでは、慰安婦なんていう言葉は使わない。Sex slave (性奴隷)と呼ぶ。

旅で親日家や知日家には大勢出会ったが、その殆どが「アニメ・漫画」愛好者である。政治的な事で日本をリスペクトしているという言葉は残念ながら一度も頂いたことがない。要するに日本に対する政治的なリスペクトは欧米では殆どないのである。
日本は海に囲まれて国境線がないから、我々の抱える問題は理解できないと思うんだけどとか、移民難民問題に消極的な日本の状況に苛立ちを感じている人がいたりするのだ。

ちなみに、ドイツに対する政治的リスペクトは耳にした。日本人からすると「これでもか」というほど過去に向き合っている。もちろん、周辺国からのドイツに対するプレッシャーもあるだろう。過去に向き合い続けることでEUの中での立ち位置を確かなものにしている側面もあるが、負の遺産が、陸続きの近隣諸国に現存しており「目を背けること自体が不可能」だということもあるだろう。いずれにしても、ドイツの姿勢がEUの原型を作り存続させる大きな要因になっていることは間違いない。

余談だがヨーロッパ滞在中、ニュースで「Brexit」(ブレグジット)という単語がやたらと出てきた。特にイギリスのEU離脱に関するニュースで多く使われた。後で分かったのだが「Britain」と「Exit」を組み合わせた造語だという事が分かった。イギリスのEU離脱を表現した単語だったのだ。イギリスの離脱でEU内のパワーバランスが崩れることを恐れる向きもある。元々、ドイツを抑え込む意図もあったものが、イギリスの離脱により、EU内におけるドイツの存在意義が高まるというのだ。そういう意味でも、イギリスの離脱に伴い、ドイツの戦後処理というか「過去への向き合い方」が変わる可能性もある。実際にドイツ人の中には「自虐史観」を毛嫌いする人も存在した。あわせて、EUにおける、移民に排他的な見解を持つグループや、極右政党の台頭が顕著になる可能性も考えられる。

そこで必要だと思うことが「戦勝国の戦後処理の見直し」だと思うのだ。いつまで第2次世界大戦の構図を引っ張った形の世界構造で我慢し続けなければならないのかという向きは存在する。今後はそういった枠組みを超え「過去に向き合う取り組み」が必要だ。

どうして、こんなことを考えるようになったのか。その大きなきっかけを与えてくれたのもトルコだった。世界最古の平和条約「カディッシュ」。ヒッタイト帝国とエジプトがこれ以上戦争を続けられないということで結ばれたものだが、ローマ帝国が一帯を支配した時には、ローマ帝国は所謂「戦勝国」だったので条約など結ぶ必要もなく、戦いによる賠償や贖罪は必要なかったのだ。また、特に一神教のユダヤ人に対する支配は、ほかの地域と異なっていたらしく、比較的、被支配地域の文化を尊重していたローマ帝国の中にあって、厳しい扱いを受けていたという。

世界最古の平和条約を見ながら「勝者の作った歴史が後世に遺恨を残すことがあるではないか。それは歴史的事実を見ても明らかなのに、何故、勝者は過去に向き合うことをまるで免除されたかのように振る舞うことができるのだろう。そして、そんなことが許され続けていいのだろうか」という気づきになったのだ。

そういった気づきから、ドイツ、日本といった第2次世界大戦戦敗国だけでなく、戦勝国も自らの行った戦後処理について、再度考証し「過去に向き合う」べきだという思いを強くしたのだ。そして、思い出したのがカントの永遠平和のためにだった。永遠平和を目指すのは国家の義務である。そこに戦勝国や戦敗国といったカテゴライズは必要ないと。

僕らにできること。それは「戦敗国」として「過去に向き合う」ことはもちろん、その活動を通して「戦勝国、戦敗国関係なく、すべての国家は永遠平和を目指すための義務を果たさねばならない」という姿勢を見せ続けることではなかろうか。

つか、EUがトルコのシリア北部への侵攻を非難した時に「350万人の難民をEUに送り込むぞ」というトルコの脅し。これをEUは「難民の兵器化」なんて言って強く非難していたが、そもそも、この原因を作ったサイクスピコ協定に絡んだ国々は「過去に向き合い贖罪する」必要はないのかいなと。

もちろん、難民問題でEUの存在意義自体が現在揺らぎまくっているのは知っているが、その原因はいったいどこにあるんだということを、しっかり議論してほしいものである。まったく・・・。



4.夫婦の見解
かおりと旅をして二人で同じものを見聞きしてきた。二人とも平和を望んでいるのは間違いないが、そのプロセスに対しては意見が異なる。僕自身は、全ての国が現在起こっている紛争の原因に向き合い、力を尽くすこと。それと、常任理事国を固定した現在の国連の在り方を見直し、大国の思惑に惑わされず、同じ過ちを繰り返させない組織を作ることだと思い始めている。

一方かおりは、僕のそれは理想論だという。人はどんな環境でも幸せを見つけることができる。思想の偏りがあるのはいい。だって、それは必然的だから。そのバランスをとることが大事なんだけど、それが難しい。人類は同じ過ちを繰り返すからね。現在の秩序を元に良い意味での「妥協」を求めていき、その中で幸せに暮らしていく方法を探ったほうが良いのではないかと思う。もちろん、今起こっている紛争が良いとは言わないよ。でも、この今を生きていかないといけないということと、その今をを変えていかないといけない。100%の解決はないけど。
この旅を通して、様々な考え方や状況に触れるたびに、お互いの考え方も徐々に変わってきているよね。でも、教育と環境は大事だよね。

この原稿を書きながら、かおりと話をしている。そんな中でも、新たな発見があったり、お互いの意見の相違が明らかになることもある。
現在、主に上がっているのは「幸せの定義」である。僕は「言論表現の自由と生存権の保証が最低限だ」というスタンス。多様な価値観の表現を保証することが平和につながるという考えがあり、それを担保するためにはこれが最低限必要だと思うのだ。あと、やっぱり言いたいことは言いたいし、それで弾圧を受けたりしたりするのはごめんだ。

しかし、かおりは「私たちから見て不自由そうに見えてしまう国でも、幸せに暮らしている人はいたじゃない。そんな国でも自国愛があって、自分の仕事に誇りをもって自分の意見を持って生きている人たちがいたよね。幸せはどんな状況でも見つけられると思うんだよね」と。その話を聞いて、これまで出会った人々の事を思い出した。

パレスチナでお世話になったカップル。狭い地域に押し込められ、いつイスラエルが入植してくるか分からない。国境をまたぐこともできない。海外に出るもの一苦労。宗教を拠り所とせず、自ら道徳的に生きることを選択している彼ら。そんな彼らと、夜の涼しい風に吹かれながら、バトミントンをしたり、星空を見ながら話をしたのを思い出した。あの瞬間、彼らは間違いなく幸せそうだった。

パレスチナ難民としてヨルダンに逃げてきたトルコ人一族。ライフラインも乏しく、新興住宅地の空き地に移り住みながら、安い労働力としてヨルダンの発展を支えている。テント生活でコンロはひとつ。夜は車のバッテリーを外して、LED電球で明かりをとる。でも、大家族で大笑いしたり、とても楽しそうに日々を過ごしていた。

他にも、ここには書けないが、厳しい言論、思想統制の中でさえも幸せに生きている人たちはいた。(多少、窮屈な思いはされてはいたが)

かおりの言うように、貧富の差、生存権を脅かされる状況、表現や言論の自由のはく奪。様々な問題を抱える世界でも「幸せに暮らしている人」がいることは事実なのだ。

人はどこでも幸せを見つけることができるのかもしれない。でも、国際NGOの「シリア人権監視団」は、10月14日、トルコのシリア侵攻で、54人の民間人が死亡し、13万人が避難を余儀なくされていると発表した。亡くなった民間人54人はもう、幸せを探すことすらできない。

ちなみに、かおりの言う「妥協」とは、僕の言う「多様な価値観を認めること。そしてお互いの表現の自由を認めること」と限りなく近い気がしている。ただ、それは難しいんじゃないかと、言っているのだと思う。

旅は、あとひと月ほどだ。自分らが訪れた地が現在進行形で大変なことになっている。ただ、ひたすら胸が痛い。

刻々と変わる情勢をニュースで見ながら、いろんな人と話をしたのを思い出した。その中に「第3次世界大戦はトルコから起こるんじゃないだろうか」と言った人がいたのを思いだした。ぞっとした。

決して対岸の火事ではない。世界は連動して動いている。トルコの金融危機には日銀もからんでいる。

移民問題もそうだ。枕崎ではすでに技術研修生を、安い労働力として受け入れてきた。鹿児島市内の建築現場や介護現場に行けば、東南アジアからの技術研修生が働いている。大都市に行けばコンビニやガソリンスタンドでも移民が働く時代だ。

移民政策に消極的だった日本が、受け入れに積極的な方針をとる中、どうやって共存していくのか、価値観の多様化が益々進む中、どのような対応が必要なのか考える必要がある。と、いっても難しいことではない。

僕の第2の故郷、枕崎には、随分前から、海外からの技術研修生が大勢いる。正直、枕崎市民は彼ら(彼女ら)との交流を積極的には行っていない。すぐ近くに住んでいるのに、挨拶もせずにスルーするひとが多いのだ。どの国から来たのかも知らないはず。まずは、挨拶をする。そしてその人の国籍やバックグラウンドを知る。それから、彼らの持つルーツや価値観に触れる。そうやってお互いの理解が深まると思うのだ。

ネパールではこんにちはは「ナマステ」、ありがとうは「タンネバー」だ。これにあわせて合掌する。皆、笑顔で挨拶を返してくれる。英語が世界共通語(確かに便利だし、どの国にも英語が通じる場所はある)だと思っている人は要注意だ。英語も通じないのか・・・とコミュニケーションを諦めてしまうことは「価値観の拒絶」につながるということを知ってほしい。自分自身がそうだったから・・・。

旅の初期、ヨーロッパで思うように英語が通じなくて「うわー。不便だ。英語通じない・・・」と愚痴をこぼす僕に「英語が通じなくてもコミュニケーションは取れるでしょ。通じないからこそ、身振り手振りで何とか相手の言いたいことをくみ取ったり、伝えたりすることにも意味があるんじゃないかな」と。

また、バルセロナのダビッドさんも「その国で、その国言葉を使おうとしないアメリカ人やイギリス人は失礼だ。あと、ポルトガル人もスペイン人(彼らはスペイン人とカタルニア人を分けて考える)も、カタルニアに来たらカタルニア語を喋るべきだ。失礼だ」と仰っていた。彼は、訪問国へのリスペクトを表すために、訪問国の言語をかなり高度なレベルで駆使できる才人だ。ちなみに、日本語もペラペラです。

かおりが、旅の中で実践し続けてきた「その国の挨拶とお礼を現地の言葉でいう事」。それこそが多様な価値観に触れ受容していくために、誰にでもできる実践なのではないだろうか。そして、そういう簡単な実践こそが、相手に対する尊厳となり「平和」へと繋がっていくのかもしれない。

そして、その先に「永遠平和」が待っているのかもなと。韓国訪問では、最大限の敬意をもって、彼らの価値観に触れてこようと思っている。