2019年11月3日日曜日

【ネパールの未来】

約1か月、ネパール、カトマンズの西部に滞在した。周辺は再開発地区にあたり、それなりに金銭的に余裕がある人たちが多い。周囲には3階建ての建物が立ち並び、有償の私立学校に通う子供が多い地区だ。日本に留学している子どももいる。

ところが、ネパールにはカーストが未だに残っており、1日1ドル以下で生活する貧困層が相当数存在するという。そこに、1996年から2006年にかけて、ネパール内戦が勃発した。加えて、ネパール王族の殺害事件が起こり、国の仕組みそのものが大きく変わってしまった。

内戦に関しては、喋りたがらない人が多い(気がしている。聞いても聞いてもお茶を濁される)。内戦で亡くなった人が多いのはもちろん、国民が、政府軍と「マオイスト」と呼ばれるネパール共産党毛沢東主義派に分かれて戦った。友達だったのに内戦で仲を引き裂かれ、お互いに銃を向け合うことになった人もいたという。悲惨の一言だ。(この話はカナダで聞いた)

また、この時期に経済的に困窮した国民は、日本やオーストラリア、韓国と言った国々に出稼ぎに出たのだという。丁度、僕と同じぐらいの年齢の人たちにこういう人たちが多いようだ。ちなみに、旦那商店のご主人は、オーストラリアで10年、韓国で2年過ごしたと言っていた。関西弁訛りの日本語を喋る方も、18年間、東海地方を中心に出稼ぎに出ていたと。

内戦に直接参加した人も、内戦を避けて海外へ出た人も、それぞれ何らかのわだかまりを心に抱きながら生活しているように見える。沖縄で聞いた「基地に反対、賛成、どちらでもないという3つの立場があるが、それを日常生活で表に出すことはない。それが日常生活を上手くおくるための方法なのだ」という話と被った。直接関係しなかった人にも長期にわたり大きな影響を及ぼす。それが戦争だ。

この内戦で学校やインフラ、様々なものが破壊された。街にはストリートチルドレンがあふれ、13年たった今でもNGO等がその救済活動を続けている。

そして、この内戦が原因で地方の開発が遅れ「地域間格差」が顕著になった。そこに、差別的身分制度が加わって、さらに大きな格差が生じている。格差を補うために、子どもたちは教育の場から遠ざけられ、労働に従事せねばならなくなった。そして、学校自体も内戦で破壊された。正直、もう滅茶苦茶だったらしい。

「地域格差」と「差別的身分制度」加えて「内戦の傷跡」これらを解決しなければネパールの未来はないと考える。

それを「無償教育」を普及させ「平和のための人(Peace for People)」を育てることで、解決しようとしている人がいる。それが、サントシさんなのだ。

彼が「教育」の重要性に気づき、具体的な活動を始めたのは、内戦で荒れ果てた状況をどうにかしなければならないという思いからだったという。実際にサントシさんの作った学校は、内戦で破壊されてしまった学校を復興させたものだ。更地にして、木造の簡単な建物から始まり、資金を調達し、コンクリートで校舎を作っていった。

周辺の子どもたちはそれまで相当な時間をかけて学校に行っていたそうである。そして、入学はしたものの貧困のために学ぶことを諦めて卒業まで至らないケースも多かったという。これが、サントシさんの様な志を持った人や、海外のNGO、開発援助によって徐々に改善されている。

繰り返すが、「地域格差」「差別的身分制度」「内戦の傷跡」これら3つの問題を解決するには、相当な労力と時間が必要だ。

だが、どうしてだろう。貧困や格差という問題を抱えながらも、ネパールの子どもたちはとても逞しく見える。街角で堂々と英語を駆使してコミュニケーションをとる姿や、言葉は通じなくとも何とか自分の思っていることを伝えようとする。分からないことを怖がるのではなくて、ぐいぐい来る子が多い。そんな様子を見ていると、子どもらは環境の改善のあるなしに関わらず、その逞しさで未来を切り開いていきそうな気がするのである。

道端で4人の男の子たちに会った。英語を喋ることができたので、ある程度恵まれた環境にいる子どもたちだろうが、物おじしない姿勢と、底知れぬ好奇心を感じた。30分ぐらい一緒にいただろうか。ずっと英語で話をした。都市部の私立学校ですら、日本の公教育の施設設備には及ばないところもあるだろう。そして、過去、現在と、まともに学ぶことができない環境が続いたこの国で、何故、こんなにも英語が通じるのか。稼ぎに直結するという理由もあろう。だが、それだけではない気がする。この国の人々の持つ本来の逞しさが、そうさせているような気がしてならない。

そして、皆、良くしゃべる。自分の事。宗教の事。国のこと。政治に対する不満。元々、気さくでおしゃべりな国民性なのかもしれない。

ネパール。住みたいと思うほど気に入った。そして平和を希求する「表現者」として「教育者」として、この国の未来を見てみたいと思うようになっている。

助けたいなどとは全く思わない。直接関わって、この国の未来を見てみたいのだ。