パレスチナに向かう車内からベドウィンのテントが見えた。ベドウィンとは、アラブ地方の遊牧民族の総称だ。ホストのホッサンさんに伺うと「きっとシリアから来たベドウィンだと思う」と。国境に近づくにつれて、掘っ立て小屋の様な場所を拠点に牛や羊、ヤギを放牧している人たちがいた。彼らもベドウィンで、古代からこうやって放牧を生活の糧としながら生きているのだそうだ。中には生業で大きな富を築き、家や高級車を手にし、遊牧民でありながら自宅を持っている者もいるという。
一方、前日に、現金をATMにおろしに行ったときに出会ったベドウィンは、かなりしつこく喜捨を求めてついてきた。相当に貧しいんだろうなと思いながらも、喜捨をできる身分ではないと合掌して逃げるように振り切った。それでも、彼らのことが気になり、高台から彼らの住まいを望遠で撮影した。シリアからの難民だったら、どうやって生活しているのか。稼ぎはいったいどうしているのか。子どもたちは学校へ行っているのかと。
パレスチナから帰ってきて、僕は精神的に完全に病んでしまった。自分に平和に向き合う資格があるのかという根源的な問いが原因だ。そして、心の状態を保てなくなった。それでも取材や撮影はしなければならない。そんな僕の様子を見て妻は、何とか僕を救おうと、彼女なりに僕に寄り添ってくれていた。そして彼女なりに僕に対する「違和感」を伝えようとした。だが、余裕を無くし正気を失っていた僕は、彼女の言葉を遮り、自分の弱さをどこかで認めながらも、真正面から向き合おうとしなかった。
自分の弱さと向き合うきっかけは沢山あった。決定的だったのは、ウクライナ東部、未だにウクライナ軍とロシア軍が占領地域でにらみ合う前線で、難民の救出や物資の提供、またウクライナ兵士への慰問などに奔走する牧師「アレックス」との出会いだった。
アレックスの活動や日常から、ぶれない「意志の強さ」や「正義」(彼は時々ぶれると言ってはいたが)を見るにつけ、自分がどれだけ意志が弱く、軟弱で、芯のない薄っぺらい人間なのだろうという思いが益々強くなった。自分の事ばかりを優先し妻の発信する「違和感」に向き合うことなく、一番大事にしなければならない妻を置き去りにしている。そして、家庭を大事にしながら、平和という命題に対して、命を投げ出すほどの覚悟を持って困難に立ち向かう彼の姿勢を見て、自分の覚悟の貧弱さと向き合うことになった。
しかし、日程は待ってはくれない。ヨルダンからパレスチナ。そして、またヨルダンとハードな日々が続いた。ヨルダンでの活動が残り5日になった時、妻は僕に対する「違和感」を涙ながらに訴えた。「これまでどれだけ歩み寄ろうとしたか、どれだけ悩んだか、この旅に私は必要ない」と涙ながらに訴えた。「二人の関係が正常でない中、平和活動をできるのか。日常生活と平和活動、あなたにとって大事なもの、優先順位が分からない」と言った。僕の答えは「日常生活であり、あなただ」。ところが、話をすればするほど、自分の芯の無さで、僕の話は揺れ動く。
妻は決心した。「日本に帰る。平和にはなってほしいけど、もはや、あなたを支えられない」と言った。内心、どうしても引き止めたかった。一緒に旅を続けたいと思った。これも甘えである。だが、妻がここまで真剣に迫っても尚、僕は「違和感」の正体に具体的に気づくことができない。もう、自分に平和を語る資格がないという事実から逃れることができないと思った。「言っていることに一貫性が全くない。あなたの何を信じればいいのかわからない」と言って荷造りを始めた。僕は終わったと思い、ショックのあまり何も持たずに、部屋を出てしまった。
どこに行く当てもなく街を彷徨った。睡眠不足と、のどの渇きで頭がぼーっとした。どれくらい歩いたか、スラム街のようなところにたどり着いた。身ぐるみ剥がされるかもしれないが、もう、どうでもいいと思った。子どもたちが寄ってきて喜捨をせがむ。お金はない。どうにか伝わらないかと思い地面にペットボトルの絵を描いて飲む真似をした。しばらくすると、大人たちも寄ってきた。大勢に取り囲まれて、一斉に話しかけられた。普通の精神様態だったら恐らく恐怖を感じたかもしれない。でも、恐怖すら感じる余裕も残っていなかった。のどが渇いて、ただひたすら疲れていた。それだけが僕を支配していた。言葉は全く通じないが「疲れていて水を欲しがっている」というのを察してくれた1人が水をお椀で持ってきてくれた。「シュクラン」と言って水を一気に飲み干した。自分の情けなさと、人の温かさに触れ、涙が止まらなくなった。
中東の広場にテントが並び立つ。地元の人たちも何者か知らない「ベドウィン」と呼ばれる人たちだった。彼らに取り囲まれて、涙する東洋人。きっと、相当奇異に映ったに違いない。その後、2杯目の水を頂いた。お礼を言い、ボーっとしていたら、カップラーメンを持ってきてくださった。また泣いた。その後、ハムとチーズの入った挟んだパンを二つ恵んでくださった。
片言の英語を喋ることができる男性が現れて、しばらくここで休むように言われた。横になった。アンマンの郊外のコンテナの陰のソファー。厚意に甘えた。疲労と絶望で、屋外のソファーで眠り込んでしまった。時折、鼻の穴や口にハエが入ってきて目が覚めたが、それ以外は、ただひたすら眠った。夕方、寒くなって目が覚めた。頭と目の前の景色がはっきりしない。目の前の景色、自分の状況、全てに現実感がなかった。しばらく、ただソファーに腰かけていた。すると、向こうのテントから女性が手招きをしている。確認のために自分を指さすと、そうだというジェスチャーをする。
よろけながらテントにたどり着くと、桶をひっくり返してカーペットをひいた椅子が用意してあった。そして、水とパンとサラダを恵んでくださった。昼にいただいたパンが手つかずだったので断ったが、気にするなという感じ。泣きながら「シュクラン」と合掌していただいた。水道や下水のインフラもないところで、どうやって稼いでいるのかも分からない彼ら。そんな彼らから施しを受ける僕。
身振り手振りで「結婚しているのか」「日本人」「何歳だ」「どこから来たのか」というようなことを質問攻め。何とか答えを返して「結婚していて、日本人で、世界を旅していて、アンマンで何らかの原因でパスポートも財布も携帯も持たずに困っていた」ということは理解してもらえたようだった。
それから彼らの話が始まった、1948という数字を携帯で見せられた。第1次中東戦争だ。中東戦争で何かあったのだということは分かった。けどそれ以上は分からなかった。その後に彼が見せてくれた数字は1914だった。第1次世界大戦の始まった年だ。そこに「アイムターキッシュ」という単語が聞こえた。どうやら第1次世界大戦でオスマントルコが敗戦した後もこの地に残り、第1次中東戦争で、また何らかの事件があったのだろうということしか分からなかった。
妻は午前2時の飛行機を予約したといった。もう、僕の顔も見たくなかろうと思っていた。妻は本気だったから。妻が部屋から出るころに戻ろう。そして、しばらく自分の弱さと、妻の訴え続けた「違和感」について考えようと思った。
坂道を上がると、妻がベドウィンの女性と一緒にこちらに歩いてきた。待ってくれていたんだと思ってうれしかった。声をかけてくれた妻に、どうなってもいいという自暴自棄な考えであてもなく歩き回ったといった。散々心配して、何も食べずに探し回ったとたと叱られた。低血糖でよく倒れる上に、朝から何も食べずに何も持たずに何時間も帰ってこなかった。今回はいい人たちに出会って運が良かったけれど、これでトランブルにでも巻き込まれて、周りの人や大使館や国に迷惑をかけることになったかもしれない。浅はかすぎると叱られた。詫びた。しかし、話は終わったわけではなかった。妻が僕を残して帰らなかったのは、最後の歩み寄りだったのだ。
ヘトヘトでボロボロの私を気遣ってくれて、この日の晩は多く話をせずに眠った。
そして、翌日、何故か妻と愛知ビエンナーレ問題と表現の自由についての話になった。「作品や表現の自由に関する議論が必要なのは理解できる。しかし、一定の歴史観を持つ人や、未だにその歴史によって実際に苦しんでいる人にとっては不快なものにすぎないと思う。議論の先に平和が見えているのなら話は別だが」と。私は全体主義やポピュリズムの危険性を説き、日本全体に蔓延する「忖度」がいつか「言論や表現の自由」を奪う可能性があるのだといった。そして、それに対して表現者は立ち向かわねばらならないと。妻は話の続きを聞くのを拒絶した。「僕は表現に関しては妥協できない。だから、あなたが私の表現活動に黙認するか妥協してくれなければ一緒にいることはできない。そして異議があるのならば、別れるしかない」と言った。
「そんなに表現にこだわって、平和や表現の自由のために妥協しないと言っている人が、どうして、2チャンネルの書き込みや、フェイスブックで誰がイイネしてくれないとか、コメントや批判をいちいち気にしているの?そんな人が平和や表現の自由をどれだけ語っても説得力がない!あなたの言葉は全く響かない。別れよう」と言った。そして「さようなら」と。
馬鹿だと思われるかもしれないが、その瞬間、私はやっと妻が訴え続けてきた「違和感」に具体的に気づいた。彼女は僕のそばでずっと、骨身を削ってこれを伝えたかったんだと。そして、私自身も、どうして自分が表現者として薄っぺらいのか、明確な答えを教えてもらったと思った。
口下手な妻は時々、平易な言葉で真理を突く。正直、私の中には、表現や言論の自由について学んだこともないだろう、また、政治的な話に疎いといという、小ばかにしたようなことろがあったのだ。ところが、妻は、私が未だ言語化できていないことを、あっさりとまとめ、平易な言葉で、核心をついてきた。
ぐうのねも出なかった。そして、その瞬間、妻がこれまで数年かけて私に言い続けてきたことが、またも走馬灯のように思い出された。妻が横暴な私に、不器用なりに、どれだけ我慢し、歩み寄りっていたのが「やっと」理解できた。そして、こんな横暴で薄っぺらい私の危険な旅に、懸命に寄り添ってくれたことに本当に感謝した。また、私がどれだけ妻に対して高飛車で、横柄だったか分かった。
妻は許してくれた。そして、夕方、昨日お世話になった方々のところに二人で行って、妻を紹介し、迷惑をかけたことを詫びた。子どもたちが集まってきた「ありがとう」「ありがとう」と合掌する。僕が昨日していたのを真似しているんだろうな。テントに招き入れていただき、私はテントの中へ。妻は女性たちに囲まれた。何やら大騒ぎが始まったように見えた。
テントの中に数人の見慣れない青年がいた。自己紹介して話を聞くと、彼らを定期的に巡回し見守り、生活の援助や医療の手助けをするボランティアをしているという。一人が英語堪能だったので、昨日の経緯から、疑問に思っていることをすべて聞いた。彼の名はニコラスという。
彼らは、第1次世界大戦でオスマントルコ帝国が敗れた時に、そのまま現イスラエルの地に残ったトルコ人なのだそうだ。そして、第1次中東戦争で難民として、ヨルダンに難民として来たのだという。この広場に住んでいる人々はみな親戚で、いとこ同士で結婚することが普通なのだと。仲間内ではトルコ語を喋り、外に出るとアラビア語を喋るバイリンガルでもあるのだ。
ベドウィンと呼んでもいいが、少し違うとも。彼らは放牧を仕事とせず、開発が進む地域にこうやって野営しながら、土木作業や建築現場で働いて生活の糧を得ていると。街の開発とともに、住処を変えながら街の開発の安い労働力としてアンマンの発展を支えているのだ。
また、驚くべきことに英語堪能な彼は、ヨルダン人の父親と、沖縄出身の母親との間に生まれたのだと言った。基本的な日本語の会話は完ぺきだった。家族の写真や、おじいさまや、おばあさまの写真を携帯で見せていただいた。そして、彼は自分に日本人の血が流れていることを誇りに思っているようだった。
それは、ベドウィンの男性の一人が私に向かって「謝謝」とあいさつした時だった。男性に悪気はない。大体、ブルースリーや、ジャッキーチェンは日本人だと思っている人も多いぐらいだ。そこで彼はアラビア語で「それは中国語のあいさつで日本語ではない」と叱責したようだった。察した私が「中国も日本も同じ文化圏ですから、気にしていません」というと、彼はまじめな顔で「いいえ。日本と中国は全く違います」と決然と言い放った。まるで「一緒にするな」と言わんばかりの態度。こと、人権意識の高い人々は中国を嫌う人が多い。それはヨーロッパでも同じだった。ウイグル自治区や、チベット自治区での人権弾圧について関心を持っている人は少なからずいる。彼もそういう人の一人なのかもしれないと思った。
彼と日本の話や彼の活動について話をしている時に、ベドウィンの彼らに撮影に協力してもらえないだろうかと思い、長老への話の取次ぎをお願いした。どんな活動をしているのか、どんな意図で、これまでどんなことをしてきたのか伝え、協力を頂けないかということを通訳していただいた。
長老はにこやかに胸に手を当て頷いた。ニコラスは「平和のためなら協力しますと言っています」と。僕は合掌して頭を下げた。撮影は明日の夕方。丁度、ムスリムは休みなので明日はいつでもいいと言われたが、夕方にならないと日差しが強すぎて、写真がハレーションを起こしてしまう。夕方5時の撮影を約束した。ニコラスにも撮影に参加しないかと声をかけたが、明日は別のキャンプをまわるので無理だと言われた。その代り、通訳や困ったことがあったらいつでも連絡してほしいと、お互いにWHAT'S UPの番号を交換した。
随分、日が傾いてきたので、かおりとお先に失礼することにした。その前に、昨日、ご迷惑をおかけした罪滅ぼしにと、お金を渡そうとした。すると、長老の次に親族をまとめている男性が「受け取れない。我々は兄弟だ。助けるのは当たり前だ」とおっしゃった。いちいち泣ける。イスラムの教えの懐の深さに感謝した。困っている者を助けるのは当たり前だという。そして、当たり前のことをしたまでだと。
翌日、5時前に広場に到着。準備をして撮影にご協力いただいた。大勢の子どもたちに取り囲まれて撮影が難しいと思い、一列に並んでもらったが、すぐに崩壊(笑) とにかく写りたがる子と、シャイで写りたがらない子が真っ二つという感じ。黙っていると「一人一回ずつ」という約束をしたにも関わらず2度写ろうとする子もいた。
子どもたちの撮影が終わると、大人たちも撮影に参加してくださった。恥ずかしさを乗り越えて大勢が参加してくださったのが分かった。
昨日、お礼を受け取ってくださらなかったので、かおりの作った雄雌の折り鶴と、私が描いた鳩の水彩画を差し上げた。連絡をいつでもとれるようにと、絵の後ろに電話番号を書くように言われた。アラビア文字で書いた。
出会いのきっかけは、私の自暴自棄な行動。だが、地元の人もその素性を知らない彼らと仲良くなり、平和の連鎖を表現するための撮影に協力いただいた。ただ、ひたすら彼らと、私をここまで支えてくれた妻に感謝した。ありがとう。
翌日、ヨルダンでの活動最終日。僕らは荷物の整理に追われていた。その中で、旅に必要ないものを処分せねばならなくなった。これまで各国で余った硬貨、カシオの腕時計、日本語と英語の辞書。もしかしたら喜んでくれるかもしれないと思い、もう一度、テントを訪れた。
時計と辞書は長老に。そして、コインは子どもたちにと言ったが、ユーロとドルは使えるらしい。その他を子供らに与えるという話になった。一枚いちまい、コインを見せながら「ジャパン」「タイワン」「カナダ」「ポーランド」「ウクライナ」「ブルガリア」と説明する。その度に、子供たちは目をキラキラさせて「ジャパン」「タイワン」・・・と復唱する。
荷造りも途中で、まだ、せねばならないことがあったため、最後のお別れをした。いつも見送りしてくれる子どもたちが、コイン欲しさに長老の周りから身動きもせず、こちらを見ることもしない。まだ見ぬ世界への興味やあこがれの強さなのだろうか。こんなに喜んでくれるとは思わなかった。
キャンプを後にしながら歩く、具体的に何が変わったわけでもない自分。しかし自分を卑下する気持ちや、旅を続ける自分に対する「嫌悪」はいつの間にか消えていた。明日、カイロに発つ。楽しみだ。旅はこれから。
旅の様子はこちらでもご覧になれます。
一方、前日に、現金をATMにおろしに行ったときに出会ったベドウィンは、かなりしつこく喜捨を求めてついてきた。相当に貧しいんだろうなと思いながらも、喜捨をできる身分ではないと合掌して逃げるように振り切った。それでも、彼らのことが気になり、高台から彼らの住まいを望遠で撮影した。シリアからの難民だったら、どうやって生活しているのか。稼ぎはいったいどうしているのか。子どもたちは学校へ行っているのかと。
パレスチナから帰ってきて、僕は精神的に完全に病んでしまった。自分に平和に向き合う資格があるのかという根源的な問いが原因だ。そして、心の状態を保てなくなった。それでも取材や撮影はしなければならない。そんな僕の様子を見て妻は、何とか僕を救おうと、彼女なりに僕に寄り添ってくれていた。そして彼女なりに僕に対する「違和感」を伝えようとした。だが、余裕を無くし正気を失っていた僕は、彼女の言葉を遮り、自分の弱さをどこかで認めながらも、真正面から向き合おうとしなかった。
自分の弱さと向き合うきっかけは沢山あった。決定的だったのは、ウクライナ東部、未だにウクライナ軍とロシア軍が占領地域でにらみ合う前線で、難民の救出や物資の提供、またウクライナ兵士への慰問などに奔走する牧師「アレックス」との出会いだった。
アレックスの活動や日常から、ぶれない「意志の強さ」や「正義」(彼は時々ぶれると言ってはいたが)を見るにつけ、自分がどれだけ意志が弱く、軟弱で、芯のない薄っぺらい人間なのだろうという思いが益々強くなった。自分の事ばかりを優先し妻の発信する「違和感」に向き合うことなく、一番大事にしなければならない妻を置き去りにしている。そして、家庭を大事にしながら、平和という命題に対して、命を投げ出すほどの覚悟を持って困難に立ち向かう彼の姿勢を見て、自分の覚悟の貧弱さと向き合うことになった。
しかし、日程は待ってはくれない。ヨルダンからパレスチナ。そして、またヨルダンとハードな日々が続いた。ヨルダンでの活動が残り5日になった時、妻は僕に対する「違和感」を涙ながらに訴えた。「これまでどれだけ歩み寄ろうとしたか、どれだけ悩んだか、この旅に私は必要ない」と涙ながらに訴えた。「二人の関係が正常でない中、平和活動をできるのか。日常生活と平和活動、あなたにとって大事なもの、優先順位が分からない」と言った。僕の答えは「日常生活であり、あなただ」。ところが、話をすればするほど、自分の芯の無さで、僕の話は揺れ動く。
妻は決心した。「日本に帰る。平和にはなってほしいけど、もはや、あなたを支えられない」と言った。内心、どうしても引き止めたかった。一緒に旅を続けたいと思った。これも甘えである。だが、妻がここまで真剣に迫っても尚、僕は「違和感」の正体に具体的に気づくことができない。もう、自分に平和を語る資格がないという事実から逃れることができないと思った。「言っていることに一貫性が全くない。あなたの何を信じればいいのかわからない」と言って荷造りを始めた。僕は終わったと思い、ショックのあまり何も持たずに、部屋を出てしまった。
どこに行く当てもなく街を彷徨った。睡眠不足と、のどの渇きで頭がぼーっとした。どれくらい歩いたか、スラム街のようなところにたどり着いた。身ぐるみ剥がされるかもしれないが、もう、どうでもいいと思った。子どもたちが寄ってきて喜捨をせがむ。お金はない。どうにか伝わらないかと思い地面にペットボトルの絵を描いて飲む真似をした。しばらくすると、大人たちも寄ってきた。大勢に取り囲まれて、一斉に話しかけられた。普通の精神様態だったら恐らく恐怖を感じたかもしれない。でも、恐怖すら感じる余裕も残っていなかった。のどが渇いて、ただひたすら疲れていた。それだけが僕を支配していた。言葉は全く通じないが「疲れていて水を欲しがっている」というのを察してくれた1人が水をお椀で持ってきてくれた。「シュクラン」と言って水を一気に飲み干した。自分の情けなさと、人の温かさに触れ、涙が止まらなくなった。
中東の広場にテントが並び立つ。地元の人たちも何者か知らない「ベドウィン」と呼ばれる人たちだった。彼らに取り囲まれて、涙する東洋人。きっと、相当奇異に映ったに違いない。その後、2杯目の水を頂いた。お礼を言い、ボーっとしていたら、カップラーメンを持ってきてくださった。また泣いた。その後、ハムとチーズの入った挟んだパンを二つ恵んでくださった。
片言の英語を喋ることができる男性が現れて、しばらくここで休むように言われた。横になった。アンマンの郊外のコンテナの陰のソファー。厚意に甘えた。疲労と絶望で、屋外のソファーで眠り込んでしまった。時折、鼻の穴や口にハエが入ってきて目が覚めたが、それ以外は、ただひたすら眠った。夕方、寒くなって目が覚めた。頭と目の前の景色がはっきりしない。目の前の景色、自分の状況、全てに現実感がなかった。しばらく、ただソファーに腰かけていた。すると、向こうのテントから女性が手招きをしている。確認のために自分を指さすと、そうだというジェスチャーをする。
よろけながらテントにたどり着くと、桶をひっくり返してカーペットをひいた椅子が用意してあった。そして、水とパンとサラダを恵んでくださった。昼にいただいたパンが手つかずだったので断ったが、気にするなという感じ。泣きながら「シュクラン」と合掌していただいた。水道や下水のインフラもないところで、どうやって稼いでいるのかも分からない彼ら。そんな彼らから施しを受ける僕。
身振り手振りで「結婚しているのか」「日本人」「何歳だ」「どこから来たのか」というようなことを質問攻め。何とか答えを返して「結婚していて、日本人で、世界を旅していて、アンマンで何らかの原因でパスポートも財布も携帯も持たずに困っていた」ということは理解してもらえたようだった。
それから彼らの話が始まった、1948という数字を携帯で見せられた。第1次中東戦争だ。中東戦争で何かあったのだということは分かった。けどそれ以上は分からなかった。その後に彼が見せてくれた数字は1914だった。第1次世界大戦の始まった年だ。そこに「アイムターキッシュ」という単語が聞こえた。どうやら第1次世界大戦でオスマントルコが敗戦した後もこの地に残り、第1次中東戦争で、また何らかの事件があったのだろうということしか分からなかった。
妻は午前2時の飛行機を予約したといった。もう、僕の顔も見たくなかろうと思っていた。妻は本気だったから。妻が部屋から出るころに戻ろう。そして、しばらく自分の弱さと、妻の訴え続けた「違和感」について考えようと思った。
坂道を上がると、妻がベドウィンの女性と一緒にこちらに歩いてきた。待ってくれていたんだと思ってうれしかった。声をかけてくれた妻に、どうなってもいいという自暴自棄な考えであてもなく歩き回ったといった。散々心配して、何も食べずに探し回ったとたと叱られた。低血糖でよく倒れる上に、朝から何も食べずに何も持たずに何時間も帰ってこなかった。今回はいい人たちに出会って運が良かったけれど、これでトランブルにでも巻き込まれて、周りの人や大使館や国に迷惑をかけることになったかもしれない。浅はかすぎると叱られた。詫びた。しかし、話は終わったわけではなかった。妻が僕を残して帰らなかったのは、最後の歩み寄りだったのだ。
ヘトヘトでボロボロの私を気遣ってくれて、この日の晩は多く話をせずに眠った。
そして、翌日、何故か妻と愛知ビエンナーレ問題と表現の自由についての話になった。「作品や表現の自由に関する議論が必要なのは理解できる。しかし、一定の歴史観を持つ人や、未だにその歴史によって実際に苦しんでいる人にとっては不快なものにすぎないと思う。議論の先に平和が見えているのなら話は別だが」と。私は全体主義やポピュリズムの危険性を説き、日本全体に蔓延する「忖度」がいつか「言論や表現の自由」を奪う可能性があるのだといった。そして、それに対して表現者は立ち向かわねばらならないと。妻は話の続きを聞くのを拒絶した。「僕は表現に関しては妥協できない。だから、あなたが私の表現活動に黙認するか妥協してくれなければ一緒にいることはできない。そして異議があるのならば、別れるしかない」と言った。
「そんなに表現にこだわって、平和や表現の自由のために妥協しないと言っている人が、どうして、2チャンネルの書き込みや、フェイスブックで誰がイイネしてくれないとか、コメントや批判をいちいち気にしているの?そんな人が平和や表現の自由をどれだけ語っても説得力がない!あなたの言葉は全く響かない。別れよう」と言った。そして「さようなら」と。
馬鹿だと思われるかもしれないが、その瞬間、私はやっと妻が訴え続けてきた「違和感」に具体的に気づいた。彼女は僕のそばでずっと、骨身を削ってこれを伝えたかったんだと。そして、私自身も、どうして自分が表現者として薄っぺらいのか、明確な答えを教えてもらったと思った。
口下手な妻は時々、平易な言葉で真理を突く。正直、私の中には、表現や言論の自由について学んだこともないだろう、また、政治的な話に疎いといという、小ばかにしたようなことろがあったのだ。ところが、妻は、私が未だ言語化できていないことを、あっさりとまとめ、平易な言葉で、核心をついてきた。
ぐうのねも出なかった。そして、その瞬間、妻がこれまで数年かけて私に言い続けてきたことが、またも走馬灯のように思い出された。妻が横暴な私に、不器用なりに、どれだけ我慢し、歩み寄りっていたのが「やっと」理解できた。そして、こんな横暴で薄っぺらい私の危険な旅に、懸命に寄り添ってくれたことに本当に感謝した。また、私がどれだけ妻に対して高飛車で、横柄だったか分かった。
妻は許してくれた。そして、夕方、昨日お世話になった方々のところに二人で行って、妻を紹介し、迷惑をかけたことを詫びた。子どもたちが集まってきた「ありがとう」「ありがとう」と合掌する。僕が昨日していたのを真似しているんだろうな。テントに招き入れていただき、私はテントの中へ。妻は女性たちに囲まれた。何やら大騒ぎが始まったように見えた。
テントの中に数人の見慣れない青年がいた。自己紹介して話を聞くと、彼らを定期的に巡回し見守り、生活の援助や医療の手助けをするボランティアをしているという。一人が英語堪能だったので、昨日の経緯から、疑問に思っていることをすべて聞いた。彼の名はニコラスという。
彼らは、第1次世界大戦でオスマントルコ帝国が敗れた時に、そのまま現イスラエルの地に残ったトルコ人なのだそうだ。そして、第1次中東戦争で難民として、ヨルダンに難民として来たのだという。この広場に住んでいる人々はみな親戚で、いとこ同士で結婚することが普通なのだと。仲間内ではトルコ語を喋り、外に出るとアラビア語を喋るバイリンガルでもあるのだ。
ベドウィンと呼んでもいいが、少し違うとも。彼らは放牧を仕事とせず、開発が進む地域にこうやって野営しながら、土木作業や建築現場で働いて生活の糧を得ていると。街の開発とともに、住処を変えながら街の開発の安い労働力としてアンマンの発展を支えているのだ。
また、驚くべきことに英語堪能な彼は、ヨルダン人の父親と、沖縄出身の母親との間に生まれたのだと言った。基本的な日本語の会話は完ぺきだった。家族の写真や、おじいさまや、おばあさまの写真を携帯で見せていただいた。そして、彼は自分に日本人の血が流れていることを誇りに思っているようだった。
それは、ベドウィンの男性の一人が私に向かって「謝謝」とあいさつした時だった。男性に悪気はない。大体、ブルースリーや、ジャッキーチェンは日本人だと思っている人も多いぐらいだ。そこで彼はアラビア語で「それは中国語のあいさつで日本語ではない」と叱責したようだった。察した私が「中国も日本も同じ文化圏ですから、気にしていません」というと、彼はまじめな顔で「いいえ。日本と中国は全く違います」と決然と言い放った。まるで「一緒にするな」と言わんばかりの態度。こと、人権意識の高い人々は中国を嫌う人が多い。それはヨーロッパでも同じだった。ウイグル自治区や、チベット自治区での人権弾圧について関心を持っている人は少なからずいる。彼もそういう人の一人なのかもしれないと思った。
彼と日本の話や彼の活動について話をしている時に、ベドウィンの彼らに撮影に協力してもらえないだろうかと思い、長老への話の取次ぎをお願いした。どんな活動をしているのか、どんな意図で、これまでどんなことをしてきたのか伝え、協力を頂けないかということを通訳していただいた。
長老はにこやかに胸に手を当て頷いた。ニコラスは「平和のためなら協力しますと言っています」と。僕は合掌して頭を下げた。撮影は明日の夕方。丁度、ムスリムは休みなので明日はいつでもいいと言われたが、夕方にならないと日差しが強すぎて、写真がハレーションを起こしてしまう。夕方5時の撮影を約束した。ニコラスにも撮影に参加しないかと声をかけたが、明日は別のキャンプをまわるので無理だと言われた。その代り、通訳や困ったことがあったらいつでも連絡してほしいと、お互いにWHAT'S UPの番号を交換した。
随分、日が傾いてきたので、かおりとお先に失礼することにした。その前に、昨日、ご迷惑をおかけした罪滅ぼしにと、お金を渡そうとした。すると、長老の次に親族をまとめている男性が「受け取れない。我々は兄弟だ。助けるのは当たり前だ」とおっしゃった。いちいち泣ける。イスラムの教えの懐の深さに感謝した。困っている者を助けるのは当たり前だという。そして、当たり前のことをしたまでだと。
翌日、5時前に広場に到着。準備をして撮影にご協力いただいた。大勢の子どもたちに取り囲まれて撮影が難しいと思い、一列に並んでもらったが、すぐに崩壊(笑) とにかく写りたがる子と、シャイで写りたがらない子が真っ二つという感じ。黙っていると「一人一回ずつ」という約束をしたにも関わらず2度写ろうとする子もいた。
子どもたちの撮影が終わると、大人たちも撮影に参加してくださった。恥ずかしさを乗り越えて大勢が参加してくださったのが分かった。
昨日、お礼を受け取ってくださらなかったので、かおりの作った雄雌の折り鶴と、私が描いた鳩の水彩画を差し上げた。連絡をいつでもとれるようにと、絵の後ろに電話番号を書くように言われた。アラビア文字で書いた。
出会いのきっかけは、私の自暴自棄な行動。だが、地元の人もその素性を知らない彼らと仲良くなり、平和の連鎖を表現するための撮影に協力いただいた。ただ、ひたすら彼らと、私をここまで支えてくれた妻に感謝した。ありがとう。
翌日、ヨルダンでの活動最終日。僕らは荷物の整理に追われていた。その中で、旅に必要ないものを処分せねばならなくなった。これまで各国で余った硬貨、カシオの腕時計、日本語と英語の辞書。もしかしたら喜んでくれるかもしれないと思い、もう一度、テントを訪れた。
時計と辞書は長老に。そして、コインは子どもたちにと言ったが、ユーロとドルは使えるらしい。その他を子供らに与えるという話になった。一枚いちまい、コインを見せながら「ジャパン」「タイワン」「カナダ」「ポーランド」「ウクライナ」「ブルガリア」と説明する。その度に、子供たちは目をキラキラさせて「ジャパン」「タイワン」・・・と復唱する。
荷造りも途中で、まだ、せねばならないことがあったため、最後のお別れをした。いつも見送りしてくれる子どもたちが、コイン欲しさに長老の周りから身動きもせず、こちらを見ることもしない。まだ見ぬ世界への興味やあこがれの強さなのだろうか。こんなに喜んでくれるとは思わなかった。
キャンプを後にしながら歩く、具体的に何が変わったわけでもない自分。しかし自分を卑下する気持ちや、旅を続ける自分に対する「嫌悪」はいつの間にか消えていた。明日、カイロに発つ。楽しみだ。旅はこれから。
旅の様子はこちらでもご覧になれます。