2019年4月13日土曜日

アメリカ、サンディエゴ3日目。

4月11日(木)

現地に到着してから、何ともありがたいお申し出を受けた。ラ・サールの教え子がこちらで生活しており、部屋を自由に使ってよいと言う。素直にご厚意に甘えることにした。北米はとにかく物価が高い。正直、北米とヨーロッパでどれだけ節約できるかに旅の成功がかかっているのだ。それにこの旅は、人の厚意に甘えなければ完遂できないものだというのを自覚している。もちろん、遠慮や謙虚さを忘れたわけではない。甘える心苦しさは心の中に間違いなくある。しかし、このご厚意を芸術と平和に繋げることが私たちの使命だ。また、関わった方々が「平和な世界づくりに関わることができた」と思って頂けるようにすることだ。それが何よりの恩返しになると思っている。

朝8時前に起きて、ホテルスーパー8での最後の朝食。毎日は飽きるけど、焼き立てのワッフルと塩辛いハンバーグの組み合わせは良かった。荷物をまとめ10時前にチェックアウト。ロビーで待っていると、教え子登場。23年ぶり。一目で分かった。変わっていない。ハグして車でご自宅にお招きいただいた。

到着後すぐ、お部屋の中を案内していただいた。その後、彼は仕事へ。我々は夕方の異文化交流会まで予定がないので、お部屋でゆっくりさせていただいた。まだ、時差ぼけの影響が強く、昼に強い眠気に襲われる。で、2時間ほど寝てしまった。45歳を過ぎてから目覚めが良くて、また、早くに目が覚めることが増えていた。しかも、制作に入ると必ず不眠症になる。
しかし、この時差ぼけというものは何だか根が深いようだ。まだ眠い。彼の話だと慣れるのに1週間ぐらいかかるでしょうとのこと。これが治るころにはここを後にしなければならないのだな。

4時過ぎに車でソーク研究所からのコンボイストリートのカフェSOMISOMIで行われる異文化交流会へ。ここが生物医学研究所なのかと思うほどの美しいたたずまい。ルイス・カーンの代表作でもある。こんな美しい場所で研究できるというのは素晴らしい経験になるのだろうな。羨ましい。きっとここはそのうち世界遺産になるな。

ハイウエイが渋滞を起こすというので早々に研究所を後にして異文化交流会へ。10人ほどが集まっていた。あまり時間がないので、失礼かもしれないがいきなり本題に入らせていただいた。活動の趣旨と撮影場所を決めかねていること。また、参加者に撮影に協力してほしい事を伝えた。この異文化交流会、英語を学びたい日本人と、日本語を学びたいアメリカ人が集う場所だ。日本語と英語が飛び交う中、何とか自分の思いを伝えた。活動場所に関してはバルボアパークやビーチなら大丈夫じゃないかということだったが、単なる撮影ならいいが、何かのイベントに見えるとまずいかもねということ。許可はどうなんだろう。要らないんじゃないかと。活動場所についてははっきり答えが出ないまま終了。アンユージュアルリクエストだから仕方ない。あとは語学に関する話で盛り上がった。最後に皆さんに撮影に応じていただき終了となった。撮れ高9枚。サンディエゴでやっと撮影できた。ほっとする。

終了後お迎えに来ていただき、スーパーマーケットへ。山盛りのデニッシュとホールトマト、缶スープ、バナナ、プレッツエルを買って帰宅。占めて14ドル。これで2人で3日は過ごせる。帰宅後すぐに彼はラボでの実験に戻った。その後、撮影データーのバックアップや日記を書いていたらあっという間に深夜12時をまわっていた。頭が重く疲れが出る。一時中断しシャワーをお借りして眠ることにした。昼寝をしたにも関わらず爆睡。

2日前の話。
成田・サンディエゴ間はJALだった。機内エンターテイメントの映画に見たい作品が2本あった。「ボヘミアンラプソディー」と「こんな夜中にバナナかよ」。

ボヘミアンラプソディーはクイーン結成からライブエイドまでをフレディーマーキュリーを中心に描いたもの。拝火教人でインドにルーツを持つことと容姿を気にしながらも、自分やメンバーの持つ才能に次第に気づき皆で成長していく。成功したいという野心を微塵も隠すことなく、唯一無二の存在へと変貌を遂げていく彼らの姿に胸を打たれた。なんとも清々しい反骨精神を持ちながら、妥協なき物づくりをする人たちなんだろうと。両親や友人、妻や恋人といった登場人物や名言を効果的に使いながらフレディーの葛藤を端的に描く手法にも感動した。妥協なき生き方。自分の姿を少し投影しながら見ていた。公私ともに妥協を許さず生き急いだフレディ。「僕は再び同じことをすることを嫌っている」「僕は音楽の娼婦さ」「妥協は僕にとって最も汚い言葉だ」どれもこれも、僕の中に宿ってはいるが、言語化されていなかったもので、何ともしっくりくる言葉だと。見終わった後、清々しい気持ちになった。そして私も妥協なき生き方を歩むことを再び誓った。

こんな夜更けにバナナかよ。一部、障害者の度を過ぎたわがままを描いた作品だと批判も受けているが、これら批判は「命としての対等性」という視点を欠いたものだと私は思う。「恥」だとか「美徳」「謙虚」を重んじる風潮が個の生きざまを制限してよいものだろうか。障害を持つ子を産んだ母親の苦しみ、それを感じ取る子どもの葛藤。人生を全うしようという至極まともなことに、人の力を借りねばならない辛さ。人の手を借りねば何もできない者が、その生を精一杯に生きるために口にする事を「わがまま」として捉えるか「あたりまえ」として捉えるか。それだけなんだと思う。
作中では見る人に葛藤を与えるために、あえて「わがまま」としての意図的な描き方をしているが、その後の見事な転換への導き方に感動した。
人の厚意にすがりながら生きていると自覚することで、人は謙虚になれるのではないだろうか。そして「命は対等である」ということに多くの人が気付くべきだと思った。障害があろうがなかろうが、やる人はやる。そこに境界線はなく、ただ、人としての生きざまがあるだけなのだ。実話だという。

両作品とも、人生を全うするために全力で生き切った人の美しい話であった。私も一人の人として人生を全うしたい。美しさはともかく。


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