2019年10月5日土曜日

【多様な価値観を認めることから、世界平和への道筋が生まれる】

独裁政権下の国を訪問した。そこで見たのは、本来、多様な価値観を持つはずの人々が、一定の価値観に縛られて生きている姿だった。言論の自由はなく、情報統制があからさまに行われている。公の場所での政治の話はタブーだし、国によっては逮捕の恐れもあった。もちろん、その体制下でも幸せに生きている人がいるのは事実だ。ところが、間違いなく、その中で苦しんでいる人もいる。

また、権力は、いとも簡単に言論や情報統制を行える。メディアを掌握し、個人間の連絡さえ監視する。インターネットにアクセス制限を加える。道端の警官は人をとらえ、携帯や持ち物をチェックし、その人物が反政府勢力でないか確認する。その中で、違和感を抱えて生きている人も大勢いるのだ。実際に、インタビューを拒否する人や、通り一遍等の事をいう人が存在した。

そして、旅行者に対してもその圧力はかかる。日本人は恐らく丁寧に扱われている。日本人に対して圧力を直接かけると、両国関係はおろか、観光にも大きく影響するというのを分かっているから。実際に現地の人は「日本人は何か少しでもリスクを感じると全く来なくなる」と言っていた。ところが他国の旅行者には、国内で撮影した映像や画像やメディア内のデーターを調べられ、拘留された挙句、入国拒否や強制送還に合うという。

多様な価値観を認めることに危険性を感じる人もいると思う、保守的な人や、既得利権を脅かされたりする人、そもそも自分の価値観のみを頼りに生きている人もいるだろう。

強調したいのだが、それはそれで全く構わない。領土を取り戻すには戦争を起こすしかないという人もいる。韓国の事を生理的に許せないという日本人がいるのも全く構わない。そういう人々が自身の価値観を表現できるのも「表現の自由」が保障されているからである。

一方、自身の持つ価値観を表現することすらできない人々がいるのも事実だ。先に述べた政治的な表現、思想はもちろん、宗教的なこと、ジェンダーに関しても、言いたくても、保身やその価値観のマイナー性、宗教的な禁忌により、自身を自由に表現することができない人も間違いなく存在する。彼らは、外の顔と内の顔を持ち生活している。時には苦しみ、苦しみの果てに自己表現をして拘束されたり、死刑になったりする人もいるのだ。

本当のことを喋ると自分の人生が終わってしまうとインタビューを拒否されたことがある。彼は日常生活で外の顔を内の顔を使い分ける人だが、僕らの前では嘘をつけないといった。それは、きっと僕らと出会ったときに、自分自身を偽り続ける事に疲れ果てていたからではないのか。そして「多様な価値観を認めることが平和な世界へ繋がると思う」という言葉が、彼の心の琴線に触れたのかもしれない。インタビューは拒否されたが、彼は心の内を正直に打ち明けてくれた。インタビューは諦めることにした。

表現の自由とは、言論や芸術だけでなく、個人がその価値観を公にしても、その生存権を脅かされることがない状態だ。例えば、イスラム教で同性愛者は死刑だという。LGBTを受容する法案はあっても、実際は世の中が追いついてなかったり、一部、死刑に処される国も存在する。政治思想だけではなく、個人の持つ価値観を弾圧することは、多様な価値観の表現を規制し、また、多様な価値観に触れる機会を奪う。

カントの言った「啓蒙された個人が立場から立場へと動くことができる領域が拡大すればするほど、その範囲が広がれば広がるほど、その人の思考は一層「普遍的」となるであろう」という言葉の意味を探しに出た旅であったが、その意味は「多様な価値観の受容」ということなのではないかと思うようになってきている。

第2次世界大戦で、ヨーロッパがナチスの支配下にあった時に、ユダヤ人の強制収容所への移送に協力しなかった国がふたつある。個人レベルでもユダヤ人を保護したり、日本人にも杉原千畝という外交官がいたことは皆さんもご存じだろう。そういった、圧政下で存在した多様な価値観の存在が「ユダヤ人全滅」という最悪のシナリオを回避させたのだと思う。価値観の差(多様性)が、有事の際に救いになるというのは歴史から見ても明らかなのだ。

フランスの哲学者であり文学者、ボルテールは理性と自由を掲げて「狂信」や「専制政治」を厳しく批判した。彼は無神論を肯定していないが(歴史的背景があるだろう)、神話からの解放とヨーロッパ中心主義からの脱却を18世紀に訴えているのである。

ニュージランドのアーダーン首相が育児休暇を取得した。彼女は異なる文化や宗教など多様性のある社会の実現に力を入れている。今年3月、モスクが襲撃された事件では、イスラム教徒の女性が身につけるようなスカーフをかぶり、遺族たちと面会して信仰の自由を約束したという。彼女は、宗教、ジェンダー等、既存の価値観に問題提起することで、寛容な社会を皆で作ろうと呼び掛けている。

これからも人類は様々な問題に直面するだろう。そして過去ともしっかり向き合わねばならないだろう。そこから発生する「多様な価値観の存在」から「真の平和」が生まれるのではないかと思うのだ。

しかし、そこまでの道のりが果てしなく遠く感じられるのは何故だろう。紐解かなければならない問題を沢山見てきたからだろうか。ただ、人類は間違いを繰り返しながらも、少しずつ「そういう世界」を目指そうとしているようにも思える。より良い未来を願いつつ、明日も街頭に立とうと思う。